ラリー・ホームズ1979年12月、オクラホマ州タルサにて
基本情報
通称イーストンの暗殺者
(The Easton Assassin)
階級ヘビー級
身長191cm
リーチ206cm
国籍 アメリカ合衆国
誕生日 (1949-11-03) 1949年11月3日(74歳)
出身地ジョージア州カサバート
ラリー・ホームズ(Larry Holmes、1949年11月3日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。ジョージア州カサバート出身。元WBC・IBF世界ヘビー級王者で初代IBF世界ヘビー級王者。ニックネームは「イーストンの暗殺者」(The Easton Assassin)。 モハメド・アリの引退後、マイク・タイソン台頭までの、1970年代末期から1980年代前半、いわゆる「ポスト・アリ」時代に最盛期を迎え、ヘビー級で長期政権を築き17度のWBC王座防衛、3度のIBF王座防衛に成功した。ホームズの左ジャブはボクシング史上最高と評価されることが多く、実力は折り紙付きで防衛戦でも多くの好ファイトを見せたが、「アリのコピー」呼ばわりされたこと、加えて強力なライバルの不在から人気は今一つであった。大きな注目を集めたのは引退から再起して衰えが顕著だったアリとの一戦、白人ホープのジェリー・クーニー
概要
下積み時代モハメド・アリのスパーリングパートナーを務めたことでボクシングの技術だけでなくマスコミ対応や多くのことを学んだと語っている。また学習能力が高いと自己分析しており、トレーナーはメンターのような師匠と弟子の関係ではなくアドバイザーに過ぎないという考え方を示している。従ってマイク・タイソンと養父でもあったカス・ダマトとの関係性には選手の精神的な脆弱性がありうるとの見方を持っていた。また「ファイターを偉大たらしめるものはどんな相手を倒したか」という持論を持つ[2]。 貧しい家庭の12兄弟の4男として生まれる。父親は庭師として働いていたが、それだけでは大家族を養いきれず、生活保護を受けていた。家計が苦しかったことでホームズは小学校を7年で中退して、洗車場で働いた。 19歳の時にボクシングを始める。 1972年、デュアン・ボビックに敗れ、ミュンヘンオリンピック代表の座を逸す。 アマチュアの戦績19勝3敗でプロへ転向。 1973年3月21日、プロデビュー。その後、モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、ジミー・ヤング
来歴
1978年3月25日、元スパーリング・パートナーで「ヘビー級史上最高のハードパンチャー」と称されるアーニー・シェーバースを12回3-0の判定で破り、WBC世界ヘビー級王座の挑戦権を獲得した。
1978年6月9日、WBC世界ヘビー級王者ケン・ノートンに挑戦。激しい打ち合いを繰り広げ、14回までの採点でジャッジ3者全員が同点を付けるほどの接戦となったが、最終回にホームズが猛攻し15回2-1の僅差で判定勝ちを収め、王座獲得に成功した。
最初の2度の王座防衛戦で、ホームズはアルフレッド・エヴァンゲリスタ(英語版)とオッシー・オカシオ(英語版)を容易くKOした。1979年6月22日、後のWBA世界ヘビー級王者マイク・ウィーバーと対戦。ウィーバーは当時19勝8敗の戦績であったためホームズの楽勝と思われていたが、10回までウィーバーは善戦。しかし、ホームズは11回終盤に右アッパーでダウンを奪い、続く12回に猛攻を開始し、連打でウィーバーをロープまで後退させ、見かねたレフェリーが試合をストップしTKO勝ちを収め、3度目の王座防衛に成功した[3]。
1979年9月28日、ケン・ノートンを初回でKOし王座挑戦権を獲得したアーニー・シェーバースと再戦。最初の6回まではホームズが優勢だったが、7回にシェーバーズの強烈な右オーバーハンドを貰いダウンを喫する。しかしホームズは立て直し、11回にシェーバーズを攻め続け、レフェリーが試合をストップしTKO勝ちを収め、4度目の王座防衛に成功した。続く3度の防衛戦で、ホームズはロレンゾ・ザノン、リロイ・ジョーンズ(英語版)、スコット・ルドゥー(英語版)をストップで破った[4]。
1980年10月2日、ラスベガスのシーザーズ・パレスでかつてスパーリング・パートナーだった元WBA・WBC世界ヘビー級統一王者モハメド・アリと対戦。この頃、アリはパーキンソン病の兆候である声の吃音や手の震えが見られ、ネバダ州アスレチック・コミッション(NSAC)はアリの健康状態を懸念してラスベガスで精密検査を受けるよう命じた。アリはメイヨー・クリニックで検査を受け、クリニックはアリが試合を行うことに問題はないと発表し、1980年7月31日、NSACは正式にアリの復帰戦を許可した。