ラリージャパン
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この記事は世界ラリー選手権に関して将来予定されるイベントを扱っています。内容は最新の情報を反映していない可能性があります。(2019年9月)
2006年

ラリージャパン(Rally Japan)は、FIAが管理する世界ラリー選手権(WRC)の日本ラウンド。年度により開催地域が異なる。主催は日本自動車連盟(JAF)に登録しているモータースポーツクラブのうち「加盟クラブ」の資格を有するクラブ(開催格式が最上級の「国際格式」のため)である。

第1回(2004年)から第4回(2007年)までは、北海道十勝地方で開催された。

第5回(2008年)と第6回(2010年)は、北海道の道央地域で開催された。

第7回(2020年)は、本州中部地方愛知県岐阜県)で開催される予定だったが、新型コロナウイルスの影響で中止の決断をした。
目次

1 変遷

1.1 開催に至る経緯

1.2 十勝開催

1.3 道央開催

1.4 中部開催


2 開催年表

3 歴代優勝者の一覧

4 年度別データ

4.1 第1回(2004年)

4.2 第2回(2005年)

4.3 第3回(2006年)

4.4 第4回(2007年)

4.5 第5回(2008年)

4.6 第6回(2010年)


5 脚注

6 関連項目

7 外部リンク

変遷
開催に至る経緯

日本の自動車メーカーの海外ラリー挑戦の歴史は長く、アフリカのサファリラリーやオーストラリアのサザンクロスラリーなどで好成績を残してきた。しかし、公道を長距離走行し、占有区間(スペシャルステージ)でタイムトライアルを行う国際格式のラリーを日本国内で行うためには、車検制度や道路使用許可、安全対策、地域住民の理解などの課題が多かった。

1990年代に入り、WRCでトヨタスバル三菱の日本車が全盛期を迎えた頃、広大な自然が広がる北海道でWRC招致運動が立ち上がる。AGメンバーズスポーツクラブ北海道[1](AGMSC北海道、田畑邦博代表)が母体となり、1990年に運営企画会社プランニングフォーを設立[2]十勝24時間レースの共催実績を積んで1999年に日本自動車連盟 (JAF) 公認クラブとなり、毎日新聞社の後援を得て、2001年に国際自動車連盟 (FIA) 公認の「インターナショナルラリーイン北海道」を開催した[2]。2002年はアジアパシフィックラリー選手権 (APRC) の一戦に昇格し、「ラリー北海道」と改称。FIAへのロビー活動と、地元と連携した受け入れ準備が実を結び、2004年のラリー・ジャパン初開催が決定した[3]
十勝開催 2006年

2004年?2007年にかけては北海道十勝地方で行われた。名称は2005年まで「ラリー・ジャパン」、2006年以降は「ラリージャパン」と表記される[4]。第2回(2005年)よりプロダクションカー世界ラリー選手権 (PWRC) が併催された。なお、ラリー北海道は同年よりアジアパシフィックラリー選手権(APRC)の一戦として、ラリージャパンとは別に開催されている。

ヘッドクオーター及びサービスパーク(北愛国)は帯広市に設置され、帯広市、陸別町足寄町新得町にスペシャルステージ(SS)が設定された。陸別町では、陸別サーキットのダートコースがSSの一部となった。2005年までは、幕別町札内川河川敷に観戦スタンドを備えた特設コースが建設され、スーパーSSが行われていたが、2006年は北愛国サービスパークに隣接された。国立・国定公園に隣接した林道でのラリーに対して、自然保護団体等からは抗議・反対の声もあがった[5]

コース名は標準的な日本語ではなく、北海道古来のアイヌ語の地名によって名づけられていることも特徴の一つである。スペシャルステージは非常に道幅が狭く低速なステージが多いが、道幅の広い高速コースもある。路面状況は砂や砂利が多く、非常にルーズな路面も多いためニュージーランドグレートブリテン(イギリス)に似ているとも言われている。中でも足寄町で行われるSSの一つ、パウセカムイ観戦エリアBは北海道らしい雄大な牧草地帯を走り抜けるところを観戦できるため、人気の観戦ポイントとなっていた。

初開催となった2004年は道内外と海外からのべ21万人が訪れ[6]、2回目となる2005年も20万人が観戦した[7]。また、帯広市内中心部で開催されるセレモニアルスタートにも毎年約5万人が訪れ、帯広市としては市制始まって以来の年に一度の大イベントとなっていた。SSは安全のため観客が立ち入るエリアが制限されており、SS間のロードセクション(移動区間)の沿道に熱心なギャラリーの列ができるという光景が海外のクルーたちを驚かせた。

ただし、2005年大会の終了後、ラリー北海道時代から支援を続けてきた毎日新聞が多額の経費負担を理由に撤退し、財政面の後ろ盾を失った。また、帯広市周辺の宿泊施設のキャパシティを大きく上回る関係者・観戦客の数により毎年宿泊施設不足に悩まされていたことなどに加え、ロードセクションの距離が長く、競技車両が渋滞に巻き込まれタイムコントロールに遅刻するケースがしばしば発生し、参加者から改善を求められていた。
道央開催 札幌ドーム内のスーパーSS(2008年)

2008年からはこれらの問題を一挙に解決すべく、開催地が道央地方に移された。拠点は、札幌市では大都市過ぎ、競技車両渋滞や事故等の恐れがあるため、千歳市岩見沢市辺りが有力と思われていたが[8]、最終的には札幌市に決まった。

札幌ドームにヘッドクォーター・サービスパーク・メディアセンターが集約され、ドーム内にスーパーSS(2台同時タイムアタック)用の特設ステージが用意された(屋内でのスーパーSS実施はWRC初[9])。札幌ドームではプロ野球パ・リーグクライマックスシリーズと日程が重なる可能性があることから、日程を変更したとされる[10]。SSは札幌のほか千歳市、苫小牧市恵庭市夕張市美唄市、岩見沢市、三笠市の8市にまたがるが[11]、リエゾン区間に高速道路を利用するなど、全体的にコンパクトな開催形態を目指した。新千歳には「新千歳モーターランド」のダート・オフロードコースを利用した観戦ステージが設けられた[12]。また、初めてパイオニア・カロッツェリア冠スポンサーに付くなど、財政面でも黒字化を目指すとしていた。

初開催の2008年は十勝開催時の3倍相当のチケット販売を記録したが、一部のSSでギャラリーポイントからコースが見えないという問題が発生した[9]。地域密着型だった十勝開催に比べると、大都市の札幌ではお祭り的な歓迎ムードは薄まっていた。同年末にはリーマンショックの余波でスバルとスズキがWRCからの撤退を表明したため、以後は日本の自動車メーカーの協力を受けられなくなった。

WRC開催地のローテーション制により2009年は開催されず、2010年に2回目の道央開催が行われた。この年はWRCに転向した2007年F1チャンピオン、キミ・ライコネンの参戦という話題があり、「ショッピングモールでファンとカート対決」というイベントが催された[13]

2011年に関して、FIAから開催申請料とは別にトラッキングシステムなどの使用料などで、100万ユーロ(当時の為替で1億3000万円)の追加費用が必要であると提示され、主催者はスポンサーなどの資金面から開催継続を断念した[14]。2012年に向けてカレンダー登録申請を行う[15]という話はあったものの東日本大震災などの影響などから実現せず、当時の主催クラブは継続開催を断念し、北海道での開催は2010年が最後となった。
中部開催

2010年以後ラリージャパンは中断し、しばらく空白期間が生じた。しかし、2017年にトヨタがWRCに復帰し、再び関心度が高まる中で、トヨタの地元であり、全日本ラリー選手権 (JRC) の新城ラリーを開催してきた中部地方でラリージャパンを復活させようという機運が高まる。2018年1月に招致委員会が発足し、トヨタ・モータースポーツ・クラブ(TMSC、舘信秀会長)を主催団体、株式会社サンズ[16]を運営母体として事務局を同社内に設置し、招致活動を展開[17]。WRCプロモーターと契約し「2019年開催は当確」といわれながらFIA総会でまさかの落選を喫し[18]、翌年再挑戦を経て2019年のFIAワールドスポーツカウンシルにて2020年の開催が決定した[19]

愛知県長久手市愛・地球博記念公園(モリコロパーク)に大会本部とサービスパークを置き、愛知県(名古屋市岡崎市豊田市新城市長久手市設楽町)と岐阜県中津川市恵那市)の山間部でターマック(舗装路)イベントとして開催される予定である[20]。2020年シーズンの最終戦であり、ヨーロッパ圏外のWRCイベントでは唯一のターマック戦となる。
開催年表
2001年
「インターナショナルラリーイン北海道」として十勝地方で初開催。日本国内で開催される国際格式ラリーとしては同年5月に
群馬県等で開催された日本アルペンラリーに続いて二度目であった。
2002年
2年目より「ラリー北海道」と改称し、FIAアジアパシフィックラリー選手権 (APRC) の一戦に昇格。
2003年10月
10月、パリで行われたFIA世界モータースポーツ評議会 (WMSC) 総会で2004年からのカレンダー入りが決定。日本でのWRC開催の悲願を果たす。
2004年
WRCラリージャパンとして初開催、特例としてAPRCも併催。初代勝者はペター・ソルベルグ(スバル)。0カードライバーは前年引退したトミ・マキネンが勤めた。
2005年
第2回開催、この年以降、ラリー北海道は別開催となる。SS25まで首位を独走して2連勝を決めるかと思われていたペター・ソルベルグがコース上に落ちていた岩にヒットしてコースアウトしリタイヤする。勝者はマーカス・グロンホルム(プジョー)。2位フィニッシュのセバスチャン・ローブ(シトロエン)が2年連続の年間ドライバーズチャンピオンに輝く。前戦ラリー・グレートブリテンで事故死したマイケル・パークに対する追悼の意を込め、各ワークス車両にはパークの在りし日の画像やヘルメットを模ったステッカー、メッセージなどが貼られた。ポディウムの記念撮影では「BEEF WITH US FOREVER(ビーフ、君と私達はずっと一緒だ)」という、「ビーフ」の愛称で親しまれたパークへのメッセージを掲げた。プロダクションカー世界ラリー選手権 (PWRC) が併催され、新井敏弘(スバル)が優勝。
2006年
第3回開催、セバスチャン・ローブ(シトロエン)がグロンホルム(フォード)との接戦を逃げ切りラリージャパン初優勝。WRC勝利数を27勝としてカルロス・サインツの26勝を抜きWRC最多勝利数記録を更新した。併催のPWRCは奴田原文雄(三菱)が優勝。
2007年 
第4回開催、ポイント首位グロンホルムのリタイアに続いて、ローブもペースノートの読み違いでクラッシュ。エース自滅の大混戦をミッコ・ヒルボネン(フォード)が制して優勝。併催のPWRCはガブリエル・ポッゾ(三菱)が優勝した。グループNでは田口勝彦(三菱)が優勝。
2008年
第5回開催、札幌市を中心とした道央に移動。雨や雪の影響で路面状況はヘビーウェット。DAY1でフランソワ・デュバル(フォード)がクラッシュし、コ・ドライバーのパトリック・ピバト(フランス)が重傷を負い、SSのキャンセルが発生した。ミッコ・ヒルボネン(フォード)が2連覇を果たし、3位入賞したローブ(シトロエン)がWRC初の5連覇を達成した。併催のPWRCはユホ・ハンニネン(三菱)が、それまで首位だった最若手のエフゲニー・ノビコフ(三菱)の最終SSでのトラブルにより逆転優勝。


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