ラモン・リュイ
別名ライムンドゥス・ルルス
生誕1232年頃[1]
マヨルカ王国・パルマ・デ・マヨルカ(マヨルカ島)
死没1315年6月29日 [2]
マヨルカ王国・パルマ・デ・マヨルカ(マヨルカ島)[3]
時代13世紀
地域地中海世界
研究分野哲学・神学・神秘主義
主な概念「術」
影響を受けた人物
プラトン
アリストテレス
ディオニュシオス・ホ・アレオパギテス
アエギディウス・ロマヌス
ラモン・リュイ(カタルーニャ語: Ramon Llull; カタルーニャ語: [r??mon ??u?])またはライムンドゥス・ルルス(ラテン語: Raimundus Lullus、1232年頃[1] ? 1315年6月29日[2])は、マヨルカ王国・パルマ・デ・マヨルカ出身の哲学者・神学者・神秘家[4]。フランシスコ会第三会(在俗会)会員。
初期のカタルーニャ語文学において主要な作品を制作しており[5]、「カタルーニャ語の父」(カタルーニャ文学の祖[6][7])と呼ばれる。リュイはまた計算理論の先駆者とされ、特にゴットフリート・ライプニッツに影響を与えている[8][9][10]。
経歴
初期の経歴リュイの生涯(14世紀の写本)
1229年にはアラゴン=カタルーニャ連合王国のハイメ1世がバレアレス諸島のマヨルカ島に侵攻し、イスラーム教徒のムワッヒド朝を退けてマヨルカ島を征服(英語版)した[11][12]。ハイメ1世は1231年にマヨルカ王国を建国し、パルマ・デ・マヨルカを主都とした。このキリスト教徒によるマヨルカ島征服後、リュイの両親は植民活動の一環としてイベリア半島本土のカタルーニャ地方からマヨルカ島にやってきた。当時のマヨルカ島はイスラーム教徒のサラセン人が多数を占めており、ユダヤ人も暮らしていた[13]。マヨルカ島はハイメ1世によるキリスト教的生活規範に則りながらも、イスラーム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存する特異な状況下にあった[14]。
マヨルカ王国成立直後の1232年頃[1]、リュイはパルマにある裕福な家庭に生まれた。幼少期にハイメ1世の小姓となり、廷臣として騎士道や詩作などの素養を身につけた[15][14]。ハイメ1世の次男ハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)の守役となり、後の1291年にハイメがマヨルカ王となるとセネスチャル(アラゴン王室の行政長、すなわち執事長)として相談相手を務めている[15][14]。25歳頃の1257年にはブランカ・ピカニーと結婚し、一男一女(ドメネク、マグダレーナ)を儲けた[15][14]。こうしてリュイは一家の主となったが、トルバドゥール(吟遊詩人)のように勝手気ままで浪費的な生活を続けた。
回心と独学ラモンはまだ若い男であり、マヨルカ王国の執事長を務めていた。むなしい歌や詩を制作し、不道徳にふけっていた。ある夜、彼はベッドの横に座り、愚かな愛を与えた女に対して低俗な歌を書いていた。彼が歌を書きはじめた時、十字架にかけられた我らの主イエス・キリストが右手に見え、まるで空中に浮遊しているかのようだった。 ? 自伝『Vita coaetanea』[16]
30歳頃の1263年には宗教的な啓示を受け[17][18]、この時の様子を後に自伝『Vita coaetanea』に書いている。リュイは計6回の啓示を受け、神に仕える生活を追求するために家族・地位・所有資産を手放す決心を下した。具体的には、リュイは以下の3点を企てた[19][15][18]。
主に全身全霊を捧げるために、サラセン人(イスラーム教徒)をカトリック信仰に改宗させ、そのためには死をも辞さない
異教徒の誤謬を論駁するためにこの世で最高の書物を著す
異教徒の地でカトリック信仰の真理を宣教する宣教師のために、外国語教育を目的とした修道院の設立を促進する