ラモス瑠偉
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出典検索?: "ラモス瑠偉" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年7月)

ラモス 瑠偉

ラモス瑠偉(2010年)
名前
愛称カリオカ
カタカナラモス ルイ
ラテン文字RAMOS Ruy
基本情報
国籍 日本
ブラジル
生年月日 (1957-02-09) 1957年2月9日(67歳)
出身地 ブラジルリオデジャネイロ
身長181cm
体重69kg
選手情報
ポジションFW / MF / DF
利き足右足

クラブ1
年クラブ出場(得点)
1975-1977 サージFC
1977-1996 読売クラブ / ヴェルディ川崎 302 (83)
1996-1997 京都パープルサンガ 86 (19)
1997-1998 ヴェルディ川崎 124 (38)
代表歴2
1989-1995 日本32 (1)
監督歴
2005 ビーチサッカー日本代表
2006-2007 東京ヴェルディ
2009-2013 ビーチサッカー日本代表
2014-2016 FC岐阜
2018-2019 ビーチサッカー日本代表
1. 国内リーグ戦に限る。2007年1月27日現在。
2. 2007年1月27日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ラモス 瑠偉(らもす るい、Ramos Ruy、1957年2月9日 - )は、ブラジルリオデジャネイロ出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)現役時代のポジションはフォワードミッドフィールダーディフェンダー。元日本代表

1989年日本帰化した。長男はサッカー指導者のラモス・ファビアノ、長女は歌手のFABiANA。

帰化前の本名はRuy Goncalves Ramos Sobrinho(ルイ〈フイ〉・ゴンサゥヴェス・ラモス〈ハモス〉・ソブリニョ)[注 1]。愛称の「カリオカ」は「リオっ子(リオデジャネイロ人)」を意味し、出身地に由来する[1]。「36歳85日」の日本代表最年長得点記録(2018年時点)を持つ[2]
選手時代
ブラジル時代

1957年2月9日ブラジルリオデジャネイロから山側に70-80キロほどにあるメンデスという小さなで、サッカー好きな公認会計士の父フーベンと母マリアのハモス家の、2男3女の第4子として出生した。父は大のサッカー好きであったが、母はサッカーがあまり好きではなく、息子フイのサッカー熱を嘆いていた[3]。実家近くには、当たり前の様にサッカークラブがあり当たり前の様にサッカーに没頭した。兄らに混じって空き地や道路で球蹴りに興じ、定期巡回で訪れるサッカークラブのセレクションを幾度も受け続けたが、尽く不合格であった。

1966年9歳のとき、父が逝去。大きなショックを受け、父の死が受け入れられず憤慨し、一時家を飛び出す[4]。当時住んでいた家は父親が会計士を務めていた会社の社宅だったため、実父の死亡に伴いリオから300キロ離れたサンパウロに住む叔母の家に引っ越す[5]1975年、高校2年のときに母が「フイの気が狂った」と呆れるほどに連日に渡り、膨大な試合に参加。全てはサッカーに対する情熱と、プロになり金を稼ぎたいという思いだった。高校に通うのを中断し、ほとんどの時間をサッカーとアルバイトに明け暮れ、アマチュアの大会などに参加していた。しかし見た目が細身だった事から、プロの選考はほぼ門前払い同然に終わっていた。18歳の終わり頃に、当時サンパウロ州1部リーグ中位から下位に位置していたサアジFCに加入した[6]1977年1月、19歳の時に、当時日本の読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)でプレーしていたサンパウロ州出身の日系二世選手の与那城ジョージにスカウトされた[7]。母は「気が狂った」と息子フイの日本行きを嘆き呆れ、猛反対した。
日本サッカーリーグ時代

1977年4月、来日し、中央大学法学部(通信教育部)に入学し、20歳で読売クラブに加入した[8]。当時のニックネームは、ラモスの細い肉体にちなんで「エンピツ[9]。読売サッカークラブへの加入動機は、「なんとしてでもサッカーで金を得る」ためであったが、来日早々よみうりランドのホテルでホームシックを患い、郷に帰りたいと涙するも、日本でプレーしていたブラジル人選手のカルバリオマリーニョが、赤坂六本木の繁華街にラモスと従兄弟のカルロス・ニコトラを連れ出したところ、「日本に来て良かった、もう帰る気は失せた」と大喜びした。JSL時代の登録名は「ラモス・ソブリニョ」。

ブラジル時代はDFスイーパー)としてプレイしていたが[10]、来日からしばらくはFWとしてプレーした[11]。初めは若さに加えて日本語がわからなかったため、トラブルを起こしがちであった。1978年1月14日の対日産自動車サッカー部戦で、ラモスがファウルをし、相手選手が重大なファウルを受けたように痛がる演技をし、レッドカードでラモスが退場処分を受けた後に、当の相手選手が笑っているのを見て激怒し、その相手選手をグラウンドで追い掛け回したことで、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた[12]。1年間の出場停止が解け、復帰した直後の試合から1979年2試合連続ハットトリックを含む14得点7アシストを記録。得点王・アシスト王の二冠を獲得した。これは日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂とラモスしか達成していない[13]Jリーグではアシストの個人表彰を行っていない)。この頃、サッカー好きの男友達の仲介で当時美大生だった清水初音がラモスと対面した。彼女にラモスは一目惚れした[14]。ラモスは初音の母同伴の3人でデートをし、母も娘に影響され、ラモスに関する情報や記事を収集するようになった。清水初音とラモスは後に結婚することとなった。

1981年8月2日にオートバイ事故を起こし、左足のすね複雑骨折し、選手生命の危機に陥った。このときの取り乱し方は尋常ではなく、病院に駆け付けた初音が手をつけられないほど、ポルトガル語で喚き散らし周囲にあたり散らしていた。入院生活を送る中、往復に4時間以上かけて病室に日参する初音に対し「二度と来るな!顔も見たくない。帰れ!!」と怒りをぶつけるも、それでも翌日また看病に訪れた初音に「(内心)降参した」とラモスの方が折れ、これらの献身的な看病に感激したラモスは、結婚を決意した[14][15][16][注 2]。このケガにより1981年の後期を棒に振り、翌1982年シーズンには復帰できたものの1得点のみに終わった。さらに翌年の1983年には復活し、10得点で得点王を獲得した。

1984年2月、初音とブラジルサンパウロにて挙式し、結婚した。同年11月3日、古河電工戦で、両軍入り乱れての乱闘騒ぎを起こした[17]。その後、他の選手は2試合の出場停止だったのにもかかわらず、ラモスに対しては翌年3月末までの出場停止という重い処分が下された[17]。これらの背景には、プロ志向の強い読売クラブに対して日本サッカー協会実業団チームからの妬みや反発が強く、読売クラブを代表してラモスが被害を受けたという面もあったとされている[18]

1985年サントスFCウルグアイ代表マレーシア代表を招いたキリンカップでは日本代表と並び、読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦した。ラモス個人もそのテクニックの高さを十分に証明し、日本国外クラブに勝てないどころか、読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であった(当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ出身であったため、つまり代表とはいえ「主力を半分」欠いたチームであった。)。

当時、外国人出場枠3人に対し4人の外国人選手を抱えていた読売クラブは、この問題を解消するため日本国籍の取得条件(滞在年数、日本人配偶者)を満たしていたラモスに日本への帰化を勧めていた。漠然とではあるがいずれは妻の初音を連れ、ブラジルで所帯を構えようと[注 3] 考えていたラモスはこの帰化話を聞いてあまり良い顔をしなかったものの、よく考えた結果「妻(初音)の両親は快く一人娘をガイジンの俺にくれた、俺はとんでもない馬鹿野郎だった。何かの形で日本に恩返ししないとこれでは筋が通らない。」と猛省し、日本国籍取得の申請を届け出て1989年11月に日本国籍を取得した[注 4]。本名の「Ruy」の当て字「瑠偉」は初音夫人の考案によるものである[14]

1986年に読売クラブがコーチとして招聘したジノ・サニ1958年W杯優勝メンバー)の指導を受けてプレースタイルを変え、30歳前後からMFに下がり、引退したジョージ与那城に代わる司令塔として君臨した。1986-87シーズンより背番号10番を付け、1990年代初頭は二年連続の日本年間最優秀選手賞(1990年・1991年)、2年連続アシスト王、3年連続ベストイレブンとキャリア円熟期に達した。1990年、カルロス・アルベルト・ダ・シルバが読売クラブの監督に就任すると彼と衝突し、加茂周監督率いる全日空への移籍を公言する退団騒動を起こしたが、ペペ(ジョゼ・マシア)新監督の就任や加藤久の説得によりチームに残留した。
Jリーグ時代

1993年のJリーグの開幕により、読売サッカークラブからヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)になっても、中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続けた。空前のJリーグブームの真っ只中、人気者としてテレビCMにも出演し、年俸も6千万円超となり、母に家を贈った。同年7月10日、当時ガンバ大阪に在籍していた賈秀全からファウルを受けた際、報復行為として賈の顔面にボールを投げつけ、大乱闘となった。


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