この項目では、競走馬について説明しています。その他の用法については「ラムタラ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ラムタラ
2002年、アロースタッド
欧字表記Lammtarra
品種サラブレッド
性別牡
毛色栗毛
生誕1992年2月2日
死没2014年7月6日(22歳没)
父Nijinsky
母Snow Bride
母の父Blushing Groom
生国 アメリカ合衆国
生産者Gainsborough Farm Inc
馬主Saeed Maktoum Al Maktoum
調教師Alex Scott(イギリス)
→Saeed bin Suroor (UAE)
競走成績
タイトルカルティエ賞最優秀3歳牡馬(1995年)
生涯成績4戦4勝
獲得賞金79万2033ポンド
400万フラン
勝ち鞍
G1ダービーステークス1995年
G1KGVI & QES1995年
G1凱旋門賞1995年
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ラムタラ(Lammtarra, 1992年2月2日 - 2014年7月6日)は、アメリカ合衆国で生産され、イギリスとアラブ首長国連邦ドバイで調教された競走馬。イギリスと日本で種牡馬として供用された。 1994年にデビュー。初戦を勝利したのち、翌1995年春に長期休養明けでイギリスのクラシック競走・ダービーステークスに優勝。その後夏から秋にかけて、古馬(4歳以上馬)を交えたイギリスの最高格競走・キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(以下、「キングジョージ」と記述)と、同様のフランスの競走・凱旋門賞を無敗のまま制覇し、1971年のミルリーフ以来、史上2頭目のヨーロッパ三大競走完全制覇を達成した。通算成績は4戦4勝。 競走馬引退後はイギリスで種牡馬入りしたが、1996年に日本の生産者団体が3000万ドルで購入し、日本へ導入されたことで、競馬を離れた一般の耳目も集めた。しかし期待された産駒成績は挙がらず、2006年に24万ドルでイギリスへ買い戻され、以後は同地で余生を送った。 文語である現代標準アラビア語が由来。?? ??(lam tara、主語は省略されているが目であることが示唆される「それは見なかった」)という語形で「目で見えなかった」という意味になるが、つづり間違いの?? ???(lam tar?)[1]やさらには??????(lam??rah)も見られ揺れがある。 外国語訳自体は定まっておらず英語では「invisible(目に見えないもの)[2]」という説明が多い。日本語では「決して見ることがない[3]」、「神の見えざる力[4]」といった訳がある。また、石川ワタルは「無敵 (invincible) 」という意味であると紹介している[5]。管理調教師の殺害や、自身の生命の危機の克服、その戦績と馬名との連想などから、日本においては「奇跡の名馬」または「神の馬」とも紹介された。 1992年、アラブ首長国連邦ドバイの首長モハメド・ビン=ラーシド・アル・マクトゥーム(ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム)がアメリカ合衆国ケンタッキー州に所有するゲインズバラファームに生まれる。父は1970年のイギリス三冠馬であり、種牡馬としても数々の活躍馬を輩出していたニジンスキー、母は1989年のオークスを2位入線からの繰り上がりで優勝したスノーブライド。ニジンスキーはラムタラ誕生の2か月後に死亡したため、その最終世代の産駒となった[6]。 翌1993年7月、マクトゥーム一族所有馬の専属調教師の一人であったアレックス・スコットに見初められ、同年冬にはイギリス・ニューマーケットのオークハウス厩舎に移動した[7]。その後モハメドの甥サーイド・マクトゥームの所有馬となったが、サーイドは18歳の学生であったため、実質的な所有はモハメドが創設した競走馬管理組織ゴドルフィン・レーシングが行った[3]。スコットのアシスタントを務めていたデイヴィッド・フィップスによれば、入厩当初のラムタラは穏和で、優れた馬ではあったが、凱旋門賞などの大競走を制すると予感させるほどではなかった[8]。しかしスコットはその素質の高さを確信し、本格的な調教が始まった頃には妻ジュリアに対し「ダービー馬になる」と予告していた[9]。
概要
馬名
生涯
誕生からデビューまで
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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