ラムシュ・ハラディナイ
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コソボ政治家ラムシュ・ハラディナイRamush Haradinaj
2018年撮影
生年月日 (1968-07-03) 1968年7月3日(55歳)
出生地 ユーゴスラビアセルビア共和国
コソボ・メトヒヤ自治州
デチャニ自治体グロジャン / グロジャネ
所属政党コソボ未来連合
サイン
首相
在任期間2017年9月9日 - 2020年2月3日
元首ハシム・サチ
首相
在任期間2004年12月3日 - 2005年3月8日
元首イブラヒム・ルゴヴァ
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ラムシュ・ハラディナイ(アルバニア語:Ramush Haradinaj、セルビア・クロアチア語:Рамуш Харадина? / Ramu? Haradinaj、1968年7月3日 - )は、コソボゲリラ組織・コソボ解放軍の軍事的指導者であり、コソボの政治家。2004年12月から2005年3月まで国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)統治下のコソボの首相を務めたほか、独立後も2017年から2020年まで首相を務めた。コソボ未来連合の党首。

コソボ紛争中での犯罪行為によって他のコソボ解放軍の指揮官らとともにデン・ハーグ旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)から訴追され、2008年4月3日には起訴された罪すべてに関して訴えが退けられたものの、2019年になって捕虜の臓器密売容疑で聴取を要請されたことに伴い、首相辞任を表明した。

なお、本項において地名呼称がセルビア語とアルバニア語で異なる場合、「アルバニア語呼称 / セルビア語呼称」のように表記している。
来歴

ユーゴスラビア連邦人民共和国セルビア社会主義共和国コソボ・メトヒヤ自治州のデチャニの近くの村グロジャン / グロジャネ(Gllogjan / Glo?ane)出身。そこで両親や兄弟姉妹とともに過ごした。ジャコヴァ / ジャコヴィツァの高校を卒業した後はユーゴスラビア人民軍に服務し、コソボ紛争が始まってからはプリシュティナ大学の法学部に入学した[1]。また、コソボ・アメリカン大学の修士号を持っている。

1989年のコソボのアルバニア人によるデモの後、地元のアルバニア人に対する抑圧が強まると、ハラディナイはスイスへ移り、8年間を建設作業員、警備員として過ごした[1]。スイスでは、ハラディナイはまたコソボ民族運動という分離主義組織に加わった。この組織が、後のコソボ解放軍となる。
ユーゴスラビア・セルビアに対する戦い

1996年から1997年にかけて、ハラディナイはアルバニアの国境近くの村クケス(Kukes)、モリナ(Morina)、トロポヤ(Tropoje)などで、コソボ解放軍の訓練基地の設立に関わった。1997年、ハラディナイ率いるコソボ解放軍の一団がユーゴスラビアセルビア領のコソボ・メトヒヤ自治州との国境を不法に越境しようとしているところをセルビアの警備隊に発見された。両者の間で銃撃戦となり、ハラディナイの弟ルアン(Luan)が死亡した。

ハラディナイが最終的にコソボに戻ったのは1998年2月で、コソボ紛争が激化しているさなかであった。1998年2月28日から3月5日にかけて、ユーゴスラビア連邦(セルビア)の軍が、コソボ解放軍が支配する村リコシャン / リコシャネ(Likoshan / Liko?ane)、チレズ / ツィレズ(Qirez / Cirez)、プレカズ / プレカゼ(Prekaz / Prekaze)を攻撃した。ICTYによるファトミル・リマイ(Fatmir Limaj)、ハラディン・バラ(Haradin Bala)、イサク・ムスリウ(Isak Musliu)への起訴状では、以下のように述べている:「攻撃の間(…)、83人のコソボのアルバニア人が殺害された。殺害された人々の中には老人の他、すくなくとも24人の女性や子どももいた。チレズ / ツィレズに対する攻撃の間、プレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼ(Prekazi-i-Poshtem/Donje Prekaze)では妊婦が顔を撃たれ、嬰児が殺害された。被害者の多くは至近距離から撃たれていた。報告書によると、男性らは自分たちの家の前で即決処刑された。また別の被害者は警察に拘留されている間に殺害された。プレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼへの攻撃の間、ヤシャリ(Jashari)の家族は、11歳の少女を除いて全て殺害された。」[2]

ヤシャリ一家は、ハラディナイ一家と同様に、コソボにおけるセルビアの影響力排除を求めて抵抗するアルバニア人の重要な一族であり、セルビア側からの脅迫にさらされ続けていた。この攻撃によって危機感を抱いたハラディナイは、自分の家族にも同様の危険が及ぶのを事前に避けるようにした。

3月24日、ユーゴスラビア連邦軍がグロジャン / グロジャネを包囲し、作戦行動を始めた[3][4]。ハラディナイ一族は地の利を活かし、ラムシュの指導の下、攻撃を回避することに成功した。この件によって、ハラディナイはコソボ西部におけるコソボ解放軍の指導者へと昇進していった。1998年5月、ラムシュ・ハラディナイはグロジャン / グロジャネとその周辺の村々の指導者となり、1998年6月にはドゥカジン地区の指導者となった。コソボ西部はアルバニアに隣接しているため、アルバニアから武器などを運び込む重要な回廊であった。ハラディナイが指導する地域は、最も衝突が激しい地域となった。

1998年9月、39人の遺体がハラディナイの故郷であるグロジャン / グロジャネの村で見つかった。その中には明らかに虐待を受けたと見られる痕跡が見られた。被害者には地元に住むアルバニア人とセルビア人の双方が含まれていた。この事件は、ハラディナイと彼の率いる一団に対する戦争犯罪行為として関心を集めた[5]
軍人から政治家へ

1999年北大西洋条約機構(NATO)によるコソボ占領とコソボ解放軍の解体の後、コソボ解放軍はコソボ防護隊へと改組された。このあたらしい組織で、司令官アギム・チェク(Agim Ceku)の下、ハラディナイは副司令官となった。コソボ解放軍は非軍事組織のコソボ防衛隊へと改組された。ハラディナイは2000年4月11日にコソボ防護隊を退役し、政治への参加を表明した。ハラディナイは、かつてのコソボの共産主義の指導者マフムト・バカリ(Mahmut Bakalli)の支持を受けて、2000年4月29日にコソボ未来連合を設立し、その党首に選ばれた。この決定は、かつてコソボ解放軍に属していた中でもより好戦的な人々の失望を受けた。彼らは、ハラディナイがハシム・サチの率いるコソボ民主党に加わることを期待していた。ハシム・サチはコソボ解放軍の政治的指導者であり、2000年からはコソボ民主党の党首となっていた。コソボ民主党は、コソボ解放軍に反対したイブラヒム・ルゴヴァ率いるコソボ民主連盟の最大のライバルである。

ハラディナイはコソボのアルバニア人たちの多くから英雄視されている。しかしながら、それでも2004年の選挙を含む各選挙において、ハラディナイの党は大きな成功を収めることができなかった。2004年10月の選挙以降、ハラディナイの党は、当時のコソボ大統領であったイブラヒム・ルゴヴァ率いるコソボ民主連盟の政党連合に加わることになった。それによってハラディナイは、コソボの首相に選ばれた。コソボ議会において、ハラディナイは新しい首相候補となり、120議席中72議席の賛成により首相に選出された。

ハラディナイのルゴヴァとの同盟関係は、戦争中および終戦直後の激しい対立を癒すものと見られた。一方、コソボ民主党からは激しい敵意を向けられることになった。ハラディナイはイブラヒム・ルゴヴァやその他のコソボ民主連盟の人物らとの協力関係を進めた。
ICTYの裁判

ハラディナイはたった100日首相を務めた後、デン・ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって戦争犯罪の疑いで起訴された。


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