ラミイの戦い
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ラミイの戦い


戦争:スペイン継承戦争
年月日:1706年5月23日
場所:ベルギーブラバン・ワロン州ラミイ
結果:イングランド・オランダ同盟軍の勝利
交戦勢力
イングランド王国
ネーデルラント連邦共和国フランス王国
バイエルン選帝侯領
指導者・指揮官
マールバラ公ジョン・チャーチル
アウウェルケルク卿ヘンドリック・ファン・ナッサウヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィル
マクシミリアン2世
戦力
歩兵62,000人
大砲90門歩兵60,000人
大砲62門
損害
死者1,000人
負傷2,500人死者・捕虜20,000人
スペイン継承戦争
リスト

ネーデルラント
エケレン - エリクセム - ラミイ - アウデナールデ - リール - マルプラケ - ブシャン - ドゥナ
ドイツ
カイザースヴェルト - フリートリンゲン - ケール - ヘヒシュテット - シュパイアーバハ - シェレンベルク - ブレンハイム - アグノー - ライン川
イタリア、南フランス
カルピ - キアーリ - クレモナ - ルッザーラ - カッサーノ - ニース - カルチナート - トリノ - カスティリオーネ - トゥーロン - ガエータ
スペイン、ポルトガル
ジブラルタル - バダホス - ムンジュイック - 第1次バルセロナ - 第2次バルセロナ - アルカンタラ - アルマンサ - アルメナラ - サラゴサ - ブリウエガ - ビリャビシオーサ - 第3次バルセロナ
中央アメリカ、南アメリカ
1702年8月 - グアドループ島 - ナッソー - コロニア・デル・サクラメント - ウェージャーの海戦
ヨーロッパの海戦
カディス - ビーゴ湾 - ロカ岬 - マラガ - マルベラ - サンタ・クルス・デ・テネリフェ - 1707年5月2日 - ミノルカ島 - シラクサ

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ラミイの戦い(ラミイのたたかい、The Battle of Ramillies)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで1706年5月23日に現在のベルギーブラバン・ワロン州ラミイでイングランドオランダ同盟軍とフランスバイエルン軍が衝突した。ラミリーの戦いともいわれる。目次

1 戦闘前

2 開戦

3 戦後

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

戦闘前

1704年ブレンハイムの戦いでイングランド軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルオーストリア神聖ローマ帝国)の将軍プリンツ・オイゲンと共にフランス・バイエルン連合軍を撃破してドナウ川ライン川流域を奪還、ドイツ戦線を立て直したが、翌1705年、フランスからヴィラール公モーゼル川方面に派遣され、モーゼル川に向かったマールバラ公の進軍を妨害、6月にヴィルロワ公南ネーデルラント(ベルギー)からオランダを襲撃したためマールバラ公はモーゼル川から引き返さざるを得なかった。ネーデルラントではアントワープからナミュールに広がる防衛線を突破(エリクセムの戦い)、退却するヴィルロワを追撃しながらブラバントを転戦していたが、決戦という時に同盟国オランダが回避を主張したため止むを得ず攻撃を中止、成果を出せなかった。

モーゼル川からライン川に南下したヴィラールはライン川支流のモーデル川流域の都市アグノーを同盟側の将軍バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムに奪われアルザスに後退したが、イタリア戦線はヴァンドーム公が攻勢に出てミランドラを陥とし、カッサーノの戦いでオイゲン率いるオーストリア軍に勝利、オイゲンの動きを封じて優位に立ったため、1705年は総じて同盟軍に不利な状況となった[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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