ラフィアの戦い(英: Battle of Raphia、紀元前217年6月22日)は、第四次シリア戦争の戦闘であり、セレウコス朝の王アンティオコス3世とプトレマイオス朝のプトレマイオス4世との間で戦われた会戦である。この戦いは第4次シリア戦争の帰趨を制した。この戦争はアンティオコス3世が、プトレマイオス朝の支配下にあったシリア南部(コイレ・シリア)の支配権獲得を目指してプトレマイオス朝の領土に侵攻したことではじまった戦争である。ラフィアの戦いでアンティオコス3世は敗れ、セレウコス朝の南部シリア方面への拡大政策は頓挫し、プトレマイオス朝は自国領土を防衛することに成功した。 ラフィアの戦いはヘレニズム時代有数の大会戦であり、その軍編成等についてはポリュビオス等によって記録が多く残されている。両軍とも7万前後の兵を動員した。 アンティオコス3世率いるセレウコス朝軍は、ポリュビオスの記録によれば歩兵62000人、騎兵6000騎、戦象102頭であった。両翼の一番外側に騎兵2000騎ずつが配置され、アンティオコス3世が直接指揮する騎兵隊2000人は右翼の騎兵部隊と並んで配置された。戦象60頭は右翼前衛に、42頭が左翼前衛に配置された。全体に右翼に重点的に騎兵等が配置されているのは、右翼が攻撃翼であり、右翼部隊の前進によって敵を包囲する作戦を取っていたためであると言われている。右翼部隊は突撃のため、鍵爪状に斜めに展開していた。 62000人の歩兵部隊は更に細かい部隊に分かれていた。部隊中央には銀楯隊(アルギュラスピデス)と呼ばれる選抜された精鋭歩兵部隊10000人と徴収兵からなる密集方陣(ファランクス)部隊20000人が配置され、中央右翼側には5000人の歩兵部隊が2部隊(ギリシア人傭兵5000人、ダハエ人・カルマリア
背景の反乱)を鎮圧したセレウコス朝のアンティオコス3世は、即位後の混乱を収めて対外的な拡大政策に転じた。セレウコス朝とプトレマイオス朝両国が建国された当初からその領有を巡って度々戦争が発生していたシリア南部がその最初の目標となり、紀元前219年にアンティオコス3世は大軍を率いてプトレマイオス朝を攻撃し、第四次シリア戦争が始まった。セレウコス朝軍は一時的にプトレマイオス朝の首都アレクサンドリアそばまで迫ったものの退却に追い込まれ、その後はシリアで激戦が繰り広げられた。紀元前218年に撤収した両国は、翌紀元前217年6月に入ると再び軍を整えてシリアに進軍した。両軍はパレスチナのラフィア(現:ラファ近郊)に野営地を築いて展開し、戦闘が開始された。
両軍の編成
セレウコス朝