「ラファイエット」のその他の用法については「ラファイエット (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ラファイエット侯爵
1791年のラファイエット中将。ジョセフ=デジレ・コート
ラファイエット侯爵マリー=ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette、1757年9月6日 - 1834年5月20日[2])は、フランスの貴族、軍人、政治家である。単に「ラファイエット」として知られる[注釈 1]。アメリカ独立戦争ではヨークタウンの戦いをはじめとする数々の戦闘でアメリカ軍を指揮した。そしてフランスに帰国した後、1789年のフランス革命と1830年のフランス7月革命で重要な役割を果たした。 ラファイエットは、フランス中南部のオーヴェルニュ
概要
フランスに帰国後、財政危機に対応するため1787年に開催された名士会に任命される。1789年にはフランスの3つの階級、聖職者・貴族・平民の代表が集まった三部会(英語版)に選出された。憲法制定国民議会の創設後、トーマス・ジェファーソンの助力を得て、人間と市民の権利の宣言の作成を手伝う。この文章はアメリカ独立宣言の影響を受けたもので、民主主義国家の基本原則を確立するための自然法を基としていた。また、自然権の哲学を踏まえて、奴隷制度廃止を提唱した。バスティーユ襲撃の後、国民衛兵司令官に任命され、革命中、中道であろうと努めた。1792年8月、急進派が彼の逮捕を命令すると、オーストリア領ネーデルラントへ逃亡。そこでオーストリア軍に捕まり、5年以上牢獄で過ごした。
1797年、ナポレオン・ボナパルトが自由を保障するとフランスに帰国したが、ナポレオン政権への参加は拒否した。1814年の王政復古後、自由主義派の上院議員となり、死ぬまでほとんどの間、その職を務めた。1824年にはアメリカ合衆国にジェームズ・モンロー大統領から国賓として招かれ、全24州を訪問し(英語版)大歓迎を受ける。1830年のフランス7月革命では、フランスの独裁者となる要請を断り、ルイ・フィリップが王位に就くのを支持したが、王が専制的になると反対派となった。