ラファイエット
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「ラファイエット」のその他の用法については「ラファイエット (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ラファイエット侯爵
1791年のラファイエット中将。ジョセフ=デジレ・コート(英語版)画。
渾名両世界の英雄(The Hero of the Two Worlds 、Le Heros des Deux Mondes)[1]
生誕 (1757-09-06) 1757年9月6日
フランス王国シャヴァニアック
死没 (1834-05-20) 1834年5月20日(76歳没)
フランス王国パリ
軍歴1771年 - 1792年
1830年
最終階級

少将 (アメリカ合衆国)

中将 (フランス)

除隊後

政治家

三部会員(英語版)

国民議会議員

代議院議員

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ラファイエット侯爵マリー=ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette、1757年9月6日 - 1834年5月20日[2])は、フランス貴族軍人政治家である。単に「ラファイエット」として知られる[注釈 1]アメリカ独立戦争ではヨークタウンの戦いをはじめとする数々の戦闘でアメリカ軍を指揮した。そしてフランスに帰国した後、1789年フランス革命1830年フランス7月革命で重要な役割を果たした。 
概要

ラファイエットは、フランス中南部のオーヴェルニュ(英語版)、シャヴァニアックの裕福な領主一家に生まれた。軍人となる一族の伝統に従い、13歳で士官に任官する。アメリカ独立戦争におけるアメリカの大義が崇高なものと確信するようになり、栄光を求めて新大陸へ旅立った。19歳で少将となるが、当初、アメリカ軍を指揮することはなかった。ブランディワインの戦いで負傷したが、なんとか整然とした退却を行い、ロードアイランドの戦いでは素晴らしい働きを見せた。独立戦争中盤に、フランスの支援を増やすロビー活動のため一時帰国。1780年にアメリカへ戻り、大陸軍の上級指揮官となった。1781年、ヴァージニアでチャールズ・コーンウォリス率いるイギリス軍を、他のアメリカ・フランス軍が布陣するまで足止めし、ヨークタウンの戦いで決定的勝利を得た。

フランスに帰国後、財政危機に対応するため1787年に開催された名士会に任命される。1789年にはフランスの3つの階級、聖職者・貴族・平民の代表が集まった三部会(英語版)に選出された。憲法制定国民議会の創設後、トーマス・ジェファーソンの助力を得て、人間と市民の権利の宣言の作成を手伝う。この文章はアメリカ独立宣言の影響を受けたもので、民主主義国家の基本原則を確立するための自然法を基としていた。また、自然権の哲学を踏まえて、奴隷制度廃止を提唱した。バスティーユ襲撃の後、国民衛兵司令官に任命され、革命中、中道であろうと努めた。1792年8月、急進派が彼の逮捕を命令すると、オーストリア領ネーデルラントへ逃亡。そこでオーストリア軍に捕まり、5年以上牢獄で過ごした。

1797年ナポレオン・ボナパルトが自由を保障するとフランスに帰国したが、ナポレオン政権への参加は拒否した。1814年の王政復古後、自由主義派の上院議員となり、死ぬまでほとんどの間、その職を務めた。1824年にはアメリカ合衆国にジェームズ・モンロー大統領から国賓として招かれ、全24州を訪問し(英語版)大歓迎を受ける。1830年のフランス7月革命では、フランスの独裁者となる要請を断り、ルイ・フィリップが王位に就くのを支持したが、王が専制的になると反対派となった。1834年5月20日に死去。パリのピクピュス墓地(英語版)にバンカーヒルの土で埋葬された。ラファイエットは、フランス・アメリカ両国での活躍から「両大陸の英雄(The Hero of the Two Worlds 、Le Heros des Deux Mondes)」として知られている。
生い立ち「ラファイエット家(英語版)」を参照

ラファイエットは、1757年9月6日、オーヴェルニュ(英語版)(現在のオート=ロワール県ル・ピュイ=アン=ヴレ近くのシャヴァニアックにあるシャヴァニアック城(英語版)で、擲弾兵の大佐であったブルターニュ貴族[3]のラファイエット侯爵ミシェル・ルイ・クリストフ・ロシュ・ジルベール・ポーレット・デュ・モティエ(英語版)とオーヴェルニュ貴族[3]のマリー・ルイーズ・ジョリー・ド・ラ・リヴィエール(Marie Louise Jolie de La Riviere)の間に生まれた[4]オーヴェルニュ(英語版)、シャヴァニアック=ラファイエットにあるラファイエットの生家ラファイエットの妻、マリー・アドリエンヌ・フランソワーズ(英語版)

ラファイエットの血筋は、オーヴェルニュで、おそらくはフランス全土においても、最も歴史があり、かつ著名な血筋の一つである。ラファイエット家(英語版)の男たちは、勇気と騎士道精神で名声を獲得し、危険を恐れないことで知られてきた[5]。遠い先祖の一人に、1429年オルレアン包囲戦ジャンヌ・ダルクとともに戦ったフランス元帥ジルベール・ド・ラファイエット3世がいる。伝説によれば、他の先祖が第6回十字軍で茨の冠(英語版)を手に入れたとされる[6]。母方の先祖も高貴であり、曾祖父(母親の母方の祖父)はラ・リヴィエール(La Riviere)伯爵で、1770年に死去するまで、ルイ15世の親衛騎馬隊である親衛銃士隊(英語版)、別名黒銃士隊の隊長を務めた[7]。ラファイエットの父方の伯父ジャック=ロシュ(Jacques-Roch)は、1734年1月18日、ポーランド継承戦争中にミラノでのオーストリア軍との戦闘で戦死した。それにより彼の弟であるミシェルが侯爵位を継いだ[8]

ラファイエットの父ミシェルも1759年8月1日、ミンデンの戦いイギリス率いる同盟軍との戦闘中に砲弾に当たり戦死した[9]。ラファイエットは侯爵とシャヴァニアック卿の位を継いだが、財産は母親が相続[9]。ラファイエットは収入が少ないため、国王から780リーブルの年金を与えられた[3]。ラファイエットの母は、恐らくは夫を失ったショックから、父や祖父と住むためパリへ引っ越し、残されたラファイエットは、持参金と共に城を贈られていた父方の祖母シャヴァニアック夫人(Mme de Chavaniac)によりシャヴァニアックで育てられた[8]

1768年、ラファイエットが11歳の時、パリに呼ばれ、リュクサンブール宮殿内のラ・リヴィエール伯爵邸で母親や曾祖父と暮らした。ラファイエットはパリ大学の一部であるコレージュ・ドゥ・プレシ(College du Plessis)に入り、一族の伝統である軍人の道を継ぐことを決めた[10]。曾祖父のラ・リヴィエール伯爵は、ラファイエットを将来銃士となるための訓練教程に入れた[11]。1770年4月3日と24日に母と曾祖父がそれぞれ亡くなり、25,000リーブルの収入が遺された。また叔父の死により、12歳で年12万リーブルもの収入を相続した[9]。このように財産を相続したことで、ラファイエットはブルターニュとオーヴェルニュ、トゥーレーヌなどに領地を持つ大領主となった[12]

1771年5月、ラファイエットは14歳になる前に銃士隊の士官、少尉に任命された。軍事パレードでの行進や国王に仕えるなど、彼の職務はほとんど儀礼的なものであり、引き続き学業を続けた[13]

このころ、アヤン公爵ジャン=ポール=フランソワ・ド・ノアイユ(英語版)は、5人の娘の何人かを嫁がせようとしていた。14歳のラファイエットは、ノアイユの12歳の娘マリー・アドリエンヌ・フランソワーズ(英語版)とお似合いに思われ、庇護者であったラファイエットの叔父に話を持ち掛けた[14]。しかしこの縁談は、二人、特に娘が若すぎると思ったノアイユの妻(英語版)に反対された。ただし2年間結婚を口にしないと合意することで解決し、その間、将来の結婚相手の2人は時々カジュアルな場で会い、互いを知るようになった[15]。この計画はうまくいき、二人は恋に落ちて、結婚から1807年にアドリエンヌが死ぬまで幸せに過ごした[16]
離仏
アメリカ独立運動との出会いアメリカ独立運動に加わることを決意した場所であるメスの、知事公邸前にあるラファイエットの像

1773年に婚姻契約を結んだ後、ラファイエットは妻とヴェルサイユにある義父の家に住んだ。そしてヴェルサイユの乗馬学校(同級生にはのちのシャルル10世もいた)と、名門のアカデミー・ド・ヴェルサイユ(Academie de Versailles)で学業を続けた。1773年4月には、義父の要請により国王連隊から移り[17]、ノアイユの竜騎兵隊の中尉に任じられた[18]。ラファイエット夫妻は毎週王妃の舞踏会に出席したが、ラファイエットはダンスが下手でマリー・アントワネットにからかわれ、も弱く、宮廷内でうまく立ち回れなかった[19]

1775年、ラファイエットはメスで行われた所属部隊の年度演習に参加し、そこで東部方面軍司令官のルフェック侯爵シャルル=フランソワ・ド・ブログリー(英語版)に出会った。夕食で二人はイギリスの北米植民地で起きている反乱について議論した。ラファイエットは父親を殺したイギリスを憎んでいて、イギリスが敗北すればその国際的な地位が低下すると考えていた、という見解があり[20]、また、フリーメイソンに加入して間もないラファイエットが、反乱について話すことで、「『自由のために戦う人々』としてのアメリカ人の姿が、彼の騎士道的そして今やフリーメイソン的な創造力に火を付けた」と記す者もいる[21]ヨハン・ド・カルブ(英語版)男爵(左)がラファイエット(中央)を サイラス・ディーンに紹介した場面。アロンソ・チャペル(英語版)画。1879年。

1775年9月、18歳になったラファイエットはパリに戻り、結婚のプレゼントとして約束されていた竜騎兵の隊長となった。12月には最初の子供、アンリエット(Henriette)が生まれた。この間にラファイエットは、アメリカ独立戦争が自分の信念に合うと確信するようになり[22]、「私の心は捧げられた」と語った[23]

1776年には、サイラス・ディーンを含むアメリカの使節とルイ16世、シャルル・ド・ヴェルジェンヌ(英語版)外務大臣との間で、繊細な交渉が行われた。ルイ16世とヴェルジェンヌは、アメリカ人に武器や士官を送ることで、北アメリカにおけるフランスの影響力を回復し、イギリスに対し七年戦争での敗北の復讐を果たすことを望んでいた。ラファイエットはフランス士官がアメリカへ送られる話を聞くと、それに加わることを求めた。彼はディーンに会い、若年に関わらず参加を認められた。1776年12月7日、ディーンはラファイエットを少将に就けた[24]

フランスがアメリカに士官とその他の支援を送る計画は、イギリスに知られると無に帰し、戦争となる恐れがあった。ラファイエットの義父ノアイユはラファイエットを叱り、彼にロンドンへ行き、駐英大使でラファイエットの義理の叔父であるノアイユ侯爵(英語版)を訪ねるよう伝え、1777年2月にラファイエットはそうした。しかしその間もラファイエットはアメリカ行きの計画を捨てなかった。ラファイエットはジョージ3世を紹介され、ロンドンの社交界で3週間過ごした。そしてフランスへの帰国途中に、義父から身を隠し、アメリカへ行くつもりであると手紙を書いた。ノアイユは激怒し、ルイ16世に、特にラファイエットの名前を挙げて、フランスの士官がアメリカに行くのを禁止する命令を出すよう説得した。ヴェルジェンヌがラファイエット逮捕を命じるよう国王を説得した可能性もあるが、定かでない[25]
アメリカへ出発ラファイエットが1777年3月25日にアメリカへ向け出航したポーイヤックにあるラファイエット広場(Plaza Lafayette)スペイン、バスク州パサイアにある、1777年のラファイエットの出発を記念する銘板

ラファイエットは大陸会議には彼の旅費を出す資金がないと知り、自ら112,000ポンドを出して帆船「ヴィクトワール(Victoire)」を購入した[26][27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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