ラピタ人
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、古代オセアニア民族について説明しています。古代ギリシアの民族については「ラピテース族」をご覧ください。
ラピタ人の広がったと考えられる範囲

ラピタ人(: Lapita)は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族ラピタ人骨の復顔像(国立民族学博物館・大阪府吹田市)

1952年、ニューカレドニアで発見された土器が「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになった[1]ポリネシア文化の源流とする考えが有力である。「ラピタ」という名前自体は、ニューカレドニアの現地語 (Haveke language[2]) で「穴を掘ること」または「穴を掘った場所」を意味する「ハペタア (xapeta'a)」を発掘した遺物のことと誤解して付けられた[3][1]。この文化が元々は何と呼ばれていたのかは、現在まで明らかにされていない。
歴史

ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。

ラピタ土器のうち古期のものは、紀元前1350年から同750年の間にビスマルク諸島で作られたものが見つかっている。その後紀元前250年ごろまでに、次第に多様化した。バヌアツニューカレドニアには、その地方独自の様式が見られる[4]メラネシアパプアニューギニアウンボイ島 (en) でも見つかっているが、それらが絶えた後もフィジーでは作られ続けた。

またラピタ土器は、ポリネシア西部では紀元前800年くらいからフィジーサモアトンガの一帯で作られはじめた。トンガからサモアへ、つまりポリネシアの東方にむかって植民によってラピタの文化が広がっていき、続いてマルケサス諸島ソシエテ諸島、さらにはハワイイースター島ニュージーランドへと伝わった。しかしラピタ土器はポリネシアのほとんどの地域で途絶えた。これは小さな島などでは、土器を作るのに適した粘土が得られにくかったためと考えられる。
遺物

土器は低い温度で焼いて作られており、貝殻や砂を混ぜて作られたものもある。多くは歯型の文様が付けられたが、これは樹皮布や入れ墨などにも用いられていたと考えられている。ラピタ文化圏では文様のないもの、すなわち石製の鍬 (adze) などの人工遺物や、黒曜石チャートなどで作られた石器も見つかっている。
経済活動

ブタイヌニワトリなどの牧畜が行われていた。またイモ果実を収穫するための農業も行われており、主にヤムイモタロイモココナツバナナパンノキなどが栽培されていた。これに加えて漁業が行われ、黒曜石や石の鍬、その原料となる各種の石や貝殻などとの交換による遠距離交易が行われていた。
風習

バヌアツエファテ島のテオウマ遺跡 (en) で2003年に見つかった古墳では、36体の遺体が25の墳墓または甕棺に埋葬されていた。遺体はすべて頭部を欠いており、これは一度埋葬した後に、頭部だけを取り去り巻き貝で作った指輪と置き換えていたためであった。その頭部は別に埋葬されており、埋葬されている老人の胸の上に3つの頭部が並べられていた墓が見つかっている。また見つかった甕棺の一つには、4羽の鳥が中をのぞき込む造形が見られた。炭素年代測定により、墳墓の中の貝殻はおよそ紀元前1000年ごろのものとされている[5]
植民

ポリネシアの西部では、人々の住む村落は大きな島の海岸沿い、あるいは小さな島に作られた。これは、ニューギニアの海岸などではすでに住んでいた別の民族との衝突を避けるため、あるいはラピタ人にとって致命的な病気であったマラリアを媒介する蚊をさけるためであったと考えられている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef