この項目では、古代オセアニアの民族について説明しています。古代ギリシアの民族については「ラピテース族」をご覧ください。
ラピタ人の広がったと考えられる範囲
ラピタ人(英: Lapita)は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族。ラピタ人骨の復顔像(国立民族学博物館・大阪府吹田市)
1952年、ニューカレドニアで発見された土器が「ラピタ土器
」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになった[1]。ポリネシア文化の源流とする考えが有力である。「ラピタ」という名前自体は、ニューカレドニアの現地語 (Haveke language[2]) で「穴を掘ること」または「穴を掘った場所」を意味する「ハペタア (xapeta'a)」を発掘した遺物のことと誤解して付けられた[3][1]。この文化が元々は何と呼ばれていたのかは、現在まで明らかにされていない。ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。
ラピタ土器のうち古期のものは、紀元前1350年から同750年の間にビスマルク諸島で作られたものが見つかっている。その後紀元前250年ごろまでに、次第に多様化した。バヌアツやニューカレドニアには、その地方独自の様式が見られる[4]。メラネシアやパプアニューギニアのウンボイ島 (en
) でも見つかっているが、それらが絶えた後もフィジーでは作られ続けた。またラピタ土器は、ポリネシア西部では紀元前800年くらいからフィジー、サモア、トンガの一帯で作られはじめた。トンガからサモアへ、つまりポリネシアの東方にむかって植民によってラピタの文化が広がっていき、続いてマルケサス諸島、ソシエテ諸島、さらにはハワイ、イースター島、ニュージーランドへと伝わった。しかしラピタ土器はポリネシアのほとんどの地域で途絶えた。これは小さな島などでは、土器を作るのに適した粘土が得られにくかったためと考えられる。 土器は低い温度で焼いて作られており、貝殻や砂を混ぜて作られたものもある。多くは歯型の文様が付けられたが、これは樹皮布や入れ墨などにも用いられていたと考えられている。ラピタ文化圏では文様のないもの、すなわち石製の鍬 (adze ブタ、イヌ、ニワトリなどの牧畜が行われていた。またイモや果実を収穫するための農業も行われており、主にヤムイモ、タロイモ、ココナツ、バナナ、パンノキなどが栽培されていた。これに加えて漁業が行われ、黒曜石や石の鍬、その原料となる各種の石や貝殻などとの交換による遠距離交易が行われていた。 ポリネシアの西部では、人々の住む村落は大きな島の海岸沿い、あるいは小さな島に作られた。これは、ニューギニアの海岸などではすでに住んでいた別の民族との衝突を避けるため、あるいはラピタ人にとって致命的な病気であったマラリアを媒介する蚊をさけるためであったと考えられている。
遺物
経済活動
風習 (en
植民