ラビア・カーディル
2011年
生誕 (1947-01-27) 1947年1月27日(77歳)
中華民国・新疆ウイグル自治区アルタイ市
民族ウイグル人
職業人権活動家、実業家
団体世界ウイグル会議
アメリカ・ウイグル人協会
著名な実績中国人民政治協商会議全国委員
新疆ウイグル自治区商工会議所副主席
新疆女性企業家協会副会長
肩書き世界ウイグル会議特別指導者
アメリカ・ウイグル人協会会長
配偶者シディク・ハジ・ロウジ
受賞ラフト人権基金人権賞
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ラビア・カーディル(ウイグル語: ?????? ????? (Rabiye Qadir)[1]、中国語:?比?・?コ?、ピンイン:Reb?y? K?de'?r、1947年1月27日 - )[2]は、ウイグル人の人権活動家、民族指導者。
ウイグル人には姓は存在せず、「ラビア」は名、「カーディル」は父親の名である。なお英語では中国語のピンイン表記を基にしたRebiya Kadeerという表記が通用している[3]。
新疆ウイグル自治区で実業家として成功し、中国人民政治協商会議委員を務めるなど、ウイグル人を代表する著名人として知られたが、民族問題に関する政権批判で失脚し、1999年に国家機密漏洩罪で逮捕、投獄された。2005年にアメリカ合衆国へ亡命した後は、世界ウイグル会議の議長として、中国当局の国家的テロ活動を抗議し続けている。 ラビア・カーディルは、新疆北部のアルタイ市の自営業者の家に生まれた。1962年に生家が「資本家」であるとして糾弾され、アクス市への移住を余儀なくされた。文化大革命中には、「不法に商売を行った」として批判され、これが原因で共産党員であった前夫と離婚するよう迫られたとされる。
実業家としての活動
改革開放の波に乗り、企業家として成功したラビアは、共産党への入党を認められ、1993年には中国人民政治協商会議全国委員に選出されたほか、1995年に北京で開かれた国連の第5回世界女性会議に中国代表として出席。新疆ウイグル自治区商工会議所副主席、新疆女性企業家協会副会長などの役職を務めた。
また、ウイグル人女性の行う小規模事業に投資を行う「千の母親運動」を企画し、ウイグル人女性の経済的自立の促進に貢献した[5]。 ラビアは、中国における最も著名なウイグル人として活躍すると同時に、新疆におけるウイグル人の人権状況改善を党・政府に対して積極的に訴えた。1996年の政治協商会議では、漢族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行い、注目を集めた。 同年には、ラビアの夫で作家のシディク・ハジ・ロウジ
逮捕から亡命へ
ラビアの逮捕は、中国内外のウイグル人社会に大きな衝撃を与え、国外のウイグル人を中心に、中国政府にラビアの釈放と、ウイグル人への人権侵害の停止を要求する運動が展開された。こうした運動は、欧米社会の関心を集め、アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチなどの人権団体による支援も行われた。ライス米国務長官の訪中を控えた2005年に、アメリカから人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、2005年3月14日に、「外国での病気療養」を理由にラビアを釈放した。ラビアは米国に亡命することとなった。
ウイグル民族運動の指導者として.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ジョージ・W・ブッシュアメリカ大統領と肩を組むラビア・カーディル(2008年ホワイトハウス)アイリーン・ドナヒュー
アメリカでは国際ウイグル人権民主基金を設立し、2006年5月29日には、アメリカ・ウイグル人協会(英語版)会長に就任した。チベット亡命政府におけるダライ・ラマ14世のようなカリスマ的指導者を欠いた在外ウイグル人運動にとって、ラビアの存在は重要であり、世界ウイグル会議の指導者エルキン・アルプテキンの要請を受けて、11月26日にドイツのミュンヘンで開かれた大会で、ラビアは世界ウイグル会議の第2代議長(総裁)に選出された。一方で中国政府はラビアを脱税の罪で告発し、ラビア家族の会社とラビアビル貿易有限会社に計2200万人民元罰金、アリム・アブドゥレイム(息子)に有期懲役7年・50万罰金、カハル・アブドゥレイム(息子)に10万罰金の判決を下した。
ラビアの活動は国際社会の注目を集め、投獄中の2004年にラフト人権基金の人権賞を受賞した[8]ほか、2006年にはノーベル平和賞の受賞候補の1人にも選ばれている。一方で中国政府は、ラビアを「東トルキスタン・テロリスト勢力(?突恐怖?力)」「分離独立主義者」の一員であるとして批判を続けており、国際社会におけるこうした動きを牽制している[9]。ラビア自身はダライ・ラマと会談した際に暴力的手段を用いず、高度な自治権を求めるとした[10]。
2017年11月、ラビアは世界ウイグル会議議長の地位をドルクン・エイサに譲るとともに、「世界ウイグル会議特別指導者」の称号を受けた。ラビアは前副総裁のセイット・トムチュルクや日本ウイグル連盟のトゥール・ムハメット等を各地域におけるラビアの特別代表として任命し、独自の活動を続けている。 2007年11月にアムネスティ・インターナショナル日本の招請で訪日し、中国政府による東トルキスタンでの人権抑圧を非難した[11]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}2009年10月の訪日では、鹿児島大学などで講演した[要出典]。 2012年5月の訪日では、同月14日に開かれた東京都の憲政記念館で開幕した世界ウイグル会議の第4回代表大会に出席した。この代表大会は、アジアでは初めての開催となる。日本はラビアなど世界ウイグル会議の要人にビザを発給しており、これに中国が反発している[12]。
日本における活動