ラパッロ条約_(1920年)
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ラパッロ条約(1920年)国境の変遷(1913年 - 1954年)。黄緑色、青緑色、黄色で示された範囲がラパッロ条約でイタリア領と認められた地域であるイタリア領ザーラの地図
署名1920年11月12日
署名場所ラパッロ
締約国 イタリア王国
セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラヴィア
主な内容アドリア海沿岸の国境調整
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ラパッロ条約(ラパッロじょうやく、イタリア語: Trattato di Rapallo)、またはラパロ条約(ラパロじょうやく)[1]は、1920年11月12日[2]イタリア王国とセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラヴィア王国、以下ユーゴスラヴィア)との間でイタリア・ジェノヴァ近郊のラパッロで締結された条約である。

イタリアのジョヴァンニ・ジョリッティ首相とユーゴスラヴィアのミレンコ・ヴェスニッチ首相によって調印。
概要

条約によれば、イタリアはイストリアをはじめザーラ/ザダル(Zara/Zadar)とケルソ島(Cherso、現在のツレス島)、ルッシーノ島(Lussino、現在のロシニ島)、ラゴスタ島(Lagosta、現在のラストヴォ島)、ペラゴーザ島(Pelagosa、現在のパラグルジャ島)などの島々を保有し、フィウーメ(現在のリエカ)はフィウーメ自由国になるはずだったが[3]1924年1月27日に両国がローマ条約で確認した際にはフィウーメはイタリア領とされ[1]ダルマティアの他の地域[4]やスシャク(Su?ak)がユーゴスラヴィア領とされた。

Paul N. Hehnによると、ラパッロ条約により、「イタリア国内に50万人のスラヴ人が残されたが、新生ユーゴスラビア国内には数百人のイタリア人しかいなかった」という[2]
脚注^ a b 日本大百科全書. “ラパロ条約”. コトバンク. 2018年12月23日閲覧。
^ a b A Low Dishonest Decade by Paul N. Hehn; Chapter 2, Italy the Powers and Eastern Europe, 1918-1939. Mussolini, Prisoner of the Mediterranean
^ Foreign Policies of the Great Powers by Cedric James Lowe, Routledge, Taylor & Francis Group, F. Marzari, p.177-78
^ 世界大百科事典 第2版. “ラパロ条約”. コトバンク. 2018年12月23日閲覧。

関連項目

未回収のイタリア

外部リンク

条約の英語訳(英語)


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