ラハンウェイン抵抗軍
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Rahanweyn Resistance Army (RRA)
ソマリア内戦に参加
南西ソマリアの旗
活動期間1995年10月13日 ? 2004年
氏族 / 部族ラハンウェイン (Digil and Mirifle)
指導者ハサン・シャティガドゥド(英語版)
アダン・マドベ
ムハンマド・ハブサデ(英語版)
本部バイドア
活動地域ソマリア南西部
後継ソマリア暫定連邦政府 (TFG)
関連勢力ソマリア暫定国民政府 2000?2002, ソマリア和解再生評議会(英語版) (SRRC) 2002?2003, ソマリア暫定連邦政府 (TFG) 2004?
敵対勢力ソマリ国民同盟(英語版) (SNA) 1995?2001
ソマリア和解再生評議会(英語版) (SRRC) 2001?2002
ソマリ愛国運動(英語版) (SPM-Harti)
イスラム法廷会議 (ICU)

ラハンウェイン抵抗軍(ラハンウェインていこうぐん、Rahanweyn Resistance Army, RRA)、別名リーウィン抵抗軍(リーウィンていこうぐん、Reewin Resistance Army)は、ソマリア南部で活動していた軍閥。ソマリアの氏族ラハンウェインにより1995年に結成され、2002年には南西ソマリア国として独立宣言した。2004年から ソマリア暫定連邦政府に参加後、しばらくして自然消滅。
目次

1 歴史

1.1 背景

1.2 結成

1.3 暫定国民政府とラハンウェイン抵抗軍

1.4 南西ソマリアの成立とその後


2 参考文献

歴史
背景 ソマリアの氏族分布。赤色地域がラハンウェイン氏族居住地域

ソマリアでは1980年代から内戦が勃発した。内戦初期は氏族・支族単位に分かれての反政府運動といった様相だったが、ハウィエ氏族を中心とした軍閥統一ソマリ会議(USC)が力を付けて1990年に首都モガディシュを奪取し、それまでのソマリア政府に代わって最大勢力となった。ところが、そのUSCがソマリ国民同盟(SNA)とソマリ救国同盟(SSA)に分裂してモガディシュで戦闘を始め、国連軍の介入も失敗して内戦は泥沼化[1]
結成

1995年9月、SNAの指導者モハメッド・アイディードの息子フセイン・アイディードが、SNAの一軍を率いてラハンウェイン氏族居住地域の主要都市、バイドアを占拠[2]。これに反抗したラハンウェイン氏族の有力者が10月13日、バイドアの西の町ジャフェイでラハンウェイン抵抗軍を結成した。

ラハンウェイン抵抗軍の幹部は、旧軍将校、宗教指導者、知識人などから構成された。ラハンウェイン抵抗軍は、SNAとの戦闘を開始。SNAは1996年1月にフドゥールを占拠[3]。7月になると、モハメッド・アイディードが暗殺され、フセイン・アイディードが指導者を継ぐもSNAは次第に力を失った。

ハサン・シャティガドゥド(英語版)が、当初はRRAに一司令官として参加し、1997年から議長になった[4]。副議長にはアダン・モハメド・ヌール・マドベ、第2副議長にはムハンマド・イブラヒム・ハブサデ(英語版)が就任した。1998年10月にラハンウェイン抵抗軍はフドゥールを占拠[3]。これにより、世界がラハンウェイン抵抗軍の名を知ることとなった。1999年6月6日にはバイドアを占拠[4]
暫定国民政府とラハンウェイン抵抗軍

2000年、ジブチのアルタにて、ソマリアの有力軍閥代表が会合してソマリア暫定国民政府 (TNG)が成立する。しかし暫定国民政府は求心力が弱く、SNA、ラハンウェイン抵抗軍のいずれも参加しなかった。SNAを率いるフセイン・アイディードは、2001年、暫定国民政府に対抗してソマリア和解再生評議会(英語版) (SRRC) を結成した。

ラハンウェイン氏族は、単純な統一国家を目指すTNGへの参加に消極的だったが、一方でラハンウェイン居住地域を荒らしたフセイン・アイディードのSRRCへの参加もためらわれた。結局、リーダーのシャティガドゥドはSRRCへの参加を表明[5]。2001年5月27日にはTNGの支配地域ワンラウェイン(英語版)を攻撃している[6]。12月にTNGからジブチでの会談を提案されるが、シャティガドゥドは拒否[7]

シャティガドゥドは2002年2月のインタビューで、RRAの戦力が4,000名であると語っている。また、ソマリアを連邦制とすることを望んでいるとも語った[4]
南西ソマリアの成立とその後

2002年4月1日、ラハンウェイン抵抗軍(RRA)の指導者シャティガドゥドは、支配地域を南西ソマリアとして独立宣言[8]。ただし形式上は、RRAと南西ソマリアとは別組織とされ、シャティガドゥドはRRAの議長であり、南西ソマリアの大統領でもあった。南西ソマリアは、ラハンウェイン氏族の長老、RRA幹部、地元の宗教指導者、企業家など36名からなる調停委員会が運営することになった[9]。2002年6月上旬、シャティガドゥドはエチオピアを訪問。これが後のソマリア暫定連邦政府(TFG)に繋がる。ただし、マドベやハブサデとのわだかまりの原因ともなる[10]

6月下旬、副議長だったマドベとハブサデがシャティガドゥドの元を離脱し、RRA内部の抗争が始まる[9]。マドベらの離脱は、別の軍閥ジュバ渓谷連合(英語版)の画策との説もあったが、ジュバ渓谷連合はこれを否定している[11]。7月22日、マドベは自身がRRA議長になったと宣言[12]。8月、シャティガドゥドがバイドアを奪回[13]。9月、シャティガドゥドとマドベは休戦協定を結んだ。2003年10月にはバイドア近郊の戦闘で、数百名が避難している[14]

2004年にはソマリア暫定連邦政府(TFG)が成立。TFGは地方自治を大きく認める連邦制を標榜しており、南西ソマリアもこれに参加。2005年5月、シャティガドゥドとマドベの連合軍が、ハブサデの支配地域を攻撃[15]。2006年、イスラーム武装勢力イスラム法廷会議が急速に力をつけ、ソマリア南部の多くの地域を支配。RRAの本拠地バイドアのすぐそばまで支配地域を広げるが、エチオピアの参戦によりイスラム法廷会議は衰退。

2008年、別のイスラーム武装勢力アル・シャバブが力を付け、RRAの支配地域を含むソマリア南部を占拠。RRAの本拠地バイドアも、2012年までアル・シャバブの支配下となった[16]。2014年にはシャリフ・ハッサン・シェイハ・アデン(英語版)が南西ソマリアを再結成するが、RRAは関与せず[17]
参考文献^ “ ⇒President Aidid's Somalia” (1995年9月). 2016年10月16日閲覧。


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