ラニエーリ・デ・カルツァビージ
[Wikipedia|▼Menu]

ラニエーリ・シモーネ・フランチェスコ・マリア・デ・カルツァビージ(Ranieri Simone Francesco Maria de' Calzabigi、1714年12月23日 - 1795年7月)は、イタリア出身の劇作家。オペラリブレット作家として知られ、とくにグルックが1760年代にウィーンで作曲した改革オペラである『オルフェオとエウリディーチェ』と『アルチェステ』のリブレット作者として知られる。
生涯

カルツァビージはリヴォルノに生まれ、リヴォルノとピサで学んだ。早くから文才を示し、1740年にアカデミア・デル・アルカディア (it:Accademia dell'Arcadia) とコルトーナのアカデミア・エトルスカ (it:Accademia Etrusca) への参加が認められた[1][2]

1741年からナポリに住み、サン・カルロ劇場で上演してもらうために台本を書いたが使用を拒絶された[1][2]。しかしその後も舞台作品を書きつづけ、1745年にはスペインフェリペ5世の娘のマリア・テレサフランス王太子ルイ・フェルディナンの結婚を祝うオペラの台本を書き、1747年には王太子の誕生を祝する作品『Il sogno d'Olympia』の台本を書いた[1][2]

1750年ごろ、毒殺事件の嫌疑をかけられてパリに移り、在ナポリのフランス大使だったロピタル侯爵の秘書をつとめた[2]。1754年にブフォン論争がはじまると、カルツァビージは基本的にイタリア側につき[3]、『La Lulliade』という諷刺叙事詩を書いた(ただし完成したのは1789年)[1][2]。パリでカルツァビージはメタスタージオ作品の校訂版の出版にたずさわったが、1755年に出版されたその第1巻の中で音楽劇の改良に関する論文を発表した[1][2]。カルツァビージと弟はジョゼフ・パリ=デュヴェルネ (Joseph Paris Duverney) を介してジャコモ・カサノヴァとつきあいがあり、カサノヴァの回想録の中にカルツァビージが登場する[4][2]

1760年、おそらくフランス人嫌いの素行を示したことからパリを去ってベルギーに移り、翌1761年にはウィーンへ移って宰相カウニッツの秘書として雇われた[5][2]。ここでカルツァビージはウィーンの宮廷劇場監督ジャコモ・ドゥラッツォを介してグルックと知りあった。2人の協力による作品にはバレエ・パントマイム『ドン・ジュアン』(1761年)、および『オルフェオとエウリディーチェ』(1762年)と『アルチェステ』(1767年)の2つのオペラがあるが、いずれもオペラ改革を代表する作品として成功を収めた。また『ドン・ジュアン』や『アルチェステ』のリブレットの序文は(表向きの著者名は別の人物になっているが)いずれもカルツァビージによって書かれたものであり[6]、オペラ改革の思想を示すものとして重要である。

カルツァビージによればメタスタージオやフランスのフィリップ・キノーに代表される当時のオペラのリブレットは刺激を求めるために筋書きが複雑になりすぎていた。カルツァビージのリブレットでは登場人物の数を減らし、脇役はそれまでのイタリアオペラにはなかった合唱によって表される[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef