ラナルド・マクドナルド
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}「ロナルド・マクドナルド」とは異なります。
ラナルド・マクドナルド
Ranald MacDonald
生誕 (1824-02-03) 1824年2月3日
イギリス
オレゴン・カントリー
アストリア砦
(英語版)
(現・ アメリカ合衆国
オレゴン州 アストリア)
死没 (1894-08-05) 1894年8月5日(70歳没)
アメリカ合衆国
ワシントン州
フォート・コルヴィル(英語版)
(現・ワシントン州 コルヴィル(英語版))
墓地フェリー郡インディアン墓地
記念碑長崎市、焼尻島、アストリア
民族メティ(スコットランド人・チヌーク族(英語版))
出身校レッドリバー・アカデミー(英語版)
代表作『日本回想記』
影響を与えたもの森山栄之助、堀達之助
宗教キリスト教(聖公会・プロテスタント)
罪名密入国
親アーチボルド・マクドナルド、コアルゾア
親戚Chief Comcomly(祖父)
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マクドナルド上陸地(焼尻島)オレゴン州の生誕地アストリアにある日本語で書かれた石碑。最上部は日本の鳥居をイメージしている[1]。長崎市にある顕彰碑(部分)ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald, 1824年2月3日 - 1894年8月5日)は、英領時代のカナダで生まれたメティ(西洋人と原住民の混血)の船員、冒険家[2]。鎖国時代の1848年に、アメリカの捕鯨船から小船で日本に密入国し、約10か月間滞在した。長崎では日本人通詞たちの英語学習を助け、日本初の母語話者による公式の英語教師になった。聖公会信徒[3]。
経歴
生い立ち英領カナダ時代のオレゴン・カントリー(もしくはハドソン湾会社のコロンビア・ディストリクト
(英語版))にあるアストリア砦(英語版)(現オレゴン州アストリア)で、ハドソン湾会社の毛皮商だったスコットランド人(国籍はイギリス)のアーチボルド・マクドナルドと、当地の原住民であるアメリカインディアンチヌーク族(英語版)の部族長の娘コアルゾア(別名プリンセス・レーヴァン、プリンセス・サンデー)[4][5] の間にイギリス市民(英語版)として生まれる。母親の父と父親は、採掘業で協力関係にあり、ともに成功を収めていた[6]。事業をうまく進めるために、土地所有者である原住民の有力者と婚姻関係になることは植民地開拓時代にはしばしばみられた。母親はラナルド出産後数か月で死亡し、ラナルドは母方の叔母に一時預けられたが、父親が翌年再婚したため再び引き取られた。エジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けたのち、1834年にレッドリバー植民地(英語版)(現・ウィニペグ)のミッション系の寄宿舎学校レッドリバー・アカデミー(英語版)に入り、4年間学んだあと、父の手配でオンタリオ州で銀行員の見習いになったが肌に合わず出奔[1][2]。
子供の頃、インディアン(ネイティブアメリカン)の親戚に自分達のルーツは日本人だと教えられて信じ、日本にあこがれていたため、日本行きを企て、1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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