ラドヴァン・カラジッチ
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ラドヴァン・カラジッチ
Radovan Karad?i?

2016年3月24日、国際戦犯法廷にて
スルプスカ共和国
初代 大統領
任期1992年4月7日1996年7月19日

出生 (1945-06-19) 1945年6月19日(78歳)
ユーゴスラビア王国モンテネグロシャヴニク
政党セルビア民主党
署名

ラドヴァン・カラジッチ(Radovan Karad?i?, セルビア語キリル文字: Радован Кара?и?, 1945年6月19日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家、詩人、精神科医。ユーゴスラヴィアからボスニア・ヘルツェゴビナが独立したことに反発する同国内のセルビア人がスルプスカ共和国の独立を宣言したことにともない、その大統領となった。これによってボスニア・ヘルツェゴビナはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に突入した。

紛争終結後、カラジッチは独立戦犯として旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(以下ICTY)から指名手配された。カラジッチは逃亡して潜伏していたが2008年に拘束されて[1]国連戦争犯罪法廷の裁判にかけられ、終身刑を言い渡されて服役することとなった。
初期

ユーゴスラビアモンテネグロシャヴニク(?avnik)の近くの村で、セルビア系の家庭に生まれた。父は、ユーゴスラビア王国の軍の残存勢力で構成されていたチェトニクのメンバーであり、息子の子供時代のほとんどを刑務所で過ごした。

1960年にサラエヴォに移り、サラエヴォ大学医学部で精神医学の勉強を始めた。1974年から1975年の間はニューヨークコロンビア大学で訓練を受けている[2]。帰国してからはコシェヴォ病院で精神科医として働いたが、刑事裁判を有利にするために心神喪失であるとウソの診断を下したとして有罪判決を受けたこともある。

詩人でもあり、子供向けの詩集を執筆した。セルビア人作家ドブリツァ・チョーシチ (Dobrica ?osi?) の勧めもあって政治にも関わるようになる。一部のセルビア人は戦争の英雄とみている[3]
政治家として

1989年、カラジッチはボスニア・ヘルツェゴビナにて、セルビア民主党(Serbian Democratic Party)の設立メンバーの一人となった。この政党の目的はユーゴスラビア共和国内のセルビア人をまとめ、セルビア共和国に加わるというものであった。

1991年10月24日にはボスニア・ヘルツェゴビナにて、セルビア人のみで構成されるボスニア・セルビア議会が設立された。カラジッチ率いるセルビア系の最大政党は、ボスニア内にセルビア人自治区("Serb autonomous provinces", SAOs)と、それを代表する議会も組織した。1991年11月、セルビア人は住民投票を行い、圧倒的多数の票がユーゴスラビアへの残留を求めるものであった。

1992年1月9日、ボスニア・セルビア議会はボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(The Republic of the Serb people of Bosnia and Herzegovina / Република српског народа Босне и Херцеговина / Republika srpskog naroda Bosne i Hercegovine)の設立を宣言、 同年2月28日にはボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国の憲法が制定され、その領土はセルビア人自治区を含むものであり、この共和国はユーゴスラビア共和国の一部であるとした。

1992年の2月29日と3月1日、ユーゴスラビア共和国からのボスニア・ヘルツェゴビナの独立の可否を問う国民投票が行われた。セルビア寄りのユーゴスラビア政府からの独立を望まないセルビア人はこの投票をボイコットしたが、ボスニア人とクロアチア人は投票に参加し、結果として参政権のある国民の64%が投票、98%が独立を支持するという結果になった。ボスニアの法律・憲法では、3つの民族グループすべての合意が求められていたが、同年4月6日、ボスニア・ヘルツェゴビナは欧州共同体から独立国として認められることになった。

これに不満を抱いたセルビア人勢力のボスニア・セルビア議会は翌日の7日、ボスニア・ヘルツェゴビナ内でセルビア人によるスルプスカ共和国の独立を宣言、ボスニアはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと突入した。カラジッチは12月17日にスルプスカ共和国の大統領、12月20日には軍の最高司令官となり、ボスニアの多くの地域で、セルビア人以外の民族であるイスラム系ボスニア人(ボシュニャク人)やボスニア系クロアチア人の殺害を指示したとされている。特に1995年7月にスレブレニツァで起きたボシュニャク人に対する民族浄化(スレブレニツァの虐殺)を指揮したとされている。

カラジッチは大セルビア主義を支持していたが、ロシアやギリシャと言ったほかの正教会系の国々との提携には躊躇しなかった。たとえば1994年2月、カラジッチはギリシャ政府と秘密裏にコンタクトを取り、セルビアとギリシャが同盟を結ぶことを提案した。この提案は1992年にスロボダン・ミロシェヴィッチによってもなされた。
逃亡

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結後、カラジッチに対しては、ジェノサイドに関与したと考えられる正当な理由があるとして、ICTYのRule61に基づいて国際令状が出された。アメリカ合衆国はカラジッチとラトコ・ムラディッチの逮捕に500万ドルの懸賞をかけていた[4]

1995年、国連に招待されていたカラジッチを当局はぎりぎりのところで逮捕し損ねた。カラジッチにはもう少しで令状が送達されるところであったが、寸前でセキュリティに叩き落され、カラジッチの手には渡らなかった。1996年以降、カラジッチはICTYにより戦争犯罪者として指名手配されている。国際刑事警察機構の令状によると、人道に対する罪、暴行、ジェノサイド、ジュネーヴ諸条約に対する違反、殺人、略奪などの容疑で令状が出されている。詳しくは国連による起訴状 ⇒[1]に記載されている。

カラジッチを支持する人々は彼の無罪を確信しており、10年以上もの間逃亡しているカラジッチを英雄視するセルビア人もいる。2001年には、カラジッチの故郷では彼を擁護する数百の人々がデモを行なった。

2003年3月、カラジッチの母親ヨヴァンカは自首するようにとカラジッチに公開で呼びかけた[5]

2004年11月、イギリスの軍関係者たちは、カラジッチや他の容疑者の逮捕には、軍事行動よりも、バルカンの政府に対して政治的な圧力を加えることがより効果的ではないかと語った。

2005年、ボスニアのセルビア系指導者たちは、カラジッチが捕まらない限り、ボスニアもセルビアも経済的・政治的に前進できないとして、カラジッチに対して自首するようにと呼びかけた。同年5月の逮捕劇が失敗に終わった後、7月7日にNATO軍はカラジッチの息子を逮捕したが、10日後には釈放した[6]。7月28日、カラジッチの妻リリャナ・ゼレン・カラジッチ(Liljana Zelen Karad?i?)は、彼女や家族に対して大変な圧力がかかっており、大変辛いことではあるが、投降するようにと夫に対して呼びかけた。[7]

2007年2月1日、カラジッチはロシアに潜伏しているとボスニアの新聞が報道したが、ロシア政府はこれを否定した[8]
逮捕・裁判

2008年7月21日セルビアの大統領ボリス・タディッチは、カラジッチの拘束を発表した[1]。逮捕時にカラジッチはベオグラードに住んでおり、白髪に白く長い鬚をはやしており[9]、市内を自由に行動していたという。また、「ドラガン・ダビッド・ダビッチ」(Dragan Dabi?)という偽名でプライベート・クリニックで代替医療心理学の診察を行ったり、医療関係の雑誌に寄稿したりしていたうえ[10][11]、自身のウェブサイトまで開設していた[12]


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