ラトランド公爵
Duke of Rutland
Or, two bars azure a chief quarterly azure and gules; in the 1st and 4th quarters two fleurs-de-lis and in the 2nd and 3rd a lion passant guardant all or.
創設時期1703年3月29日
創設者アン女王
貴族イングランド貴族
初代ジョン・マナーズ
ラトランド公爵(英語: Duke of Rutland)は、イングランド貴族の公爵位。
前身のラトランド伯爵位は3回創設されている。ラトランド公爵位は第9代ラトランド伯爵(第3期)ジョン・マナーズ(英語版)が1703年に叙されたのに始まる。 エドワード3世の四男である初代ヨーク公爵エドマンド・オブ・ラングリーの長男エドワード・オブ・ノリッジ (1373-1415) が1390年2月25日にラトランド伯爵に叙されたのが最初の創設である[1]。彼はさらに1402年に父から第2代ヨーク公爵位を継承したが、子孫のないままアジャンクールの戦いで戦死した[2]。 その後、ラトランド伯爵位は甥の第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット (1411-1460)(エドワード4世の父)へ継承されたと考えられている[3]。 1446年1月29日には第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットの次男エドムンド (1443-1460)(エドワード4世の弟)によって2期目のラトランド伯爵位が創設されている[1]。彼は1459年に議会から一時私権剥奪処分を受けるも、1460年に爵位への復帰が認められた。しかし子孫なく父とともに戦死した[4]。 議会招集令状
歴史
ラトランド伯爵
第1期
第2期
第3期(英語版
ラトランド公爵ビーヴァー城(英語版)をバックに立つ10代ラトランド公チャールズ・マナーズ(英語版)
9代ラトランド伯爵ジョン・マナーズ(英語版)(1638-1711) は、襲爵前の1679年3月6日に議会招集令状によるイングランド貴族爵位としてハッドンのマナーズ男爵 (Baron Manners of Haddon) に叙された。同年9月29日に第9代ラトランド伯爵位を継承し、ついで1703年3月29日にイングランド貴族爵位ラトランド公爵(Duke of Rutland)とグランビー侯爵(Marquess of Granby)に叙せられた[7][8]。
その孫である第3代公爵ジョン (1696-1779) は、ホイッグ党の政治家としてホイッグ党政権下で家政長官(英語版)や主馬頭(英語版)などの宮廷職を務めた[8]。
その孫である第4代公爵チャールズ (1754-1787) は、王璽尚書やアイルランド総督などを歴任した[9][8]。
その孫である第6代公爵チャールズ (1815-1888) は襲爵前に保守党の庶民院議員で保守党庶民院院内総務(英語版)を務めていた[10]。
その弟である第7代公爵ジョン (1818-1906) も襲爵前には保守党の庶民院議員だった。彼はベンジャミン・ディズレーリらとともに「ヤング・イングランド(英語版)」を結成し、党の主流派に背いた[11]。その後、保守党政権下で建設長官(英語版)(1852, 1858-1859, 1866-1868) 、郵政長官 (1874-1880, 1885-1886) 、ランカスター公領大臣 (1886-1892) など閣僚職を歴任し、1896年6月17日には連合王国貴族爵位レスター州におけるビーヴァーのルース男爵 (Baron Roos of Belvoir, of Belvoir in the County of Leicester) 」に叙せられた[8]。
2019年現在の当主は、その玄孫にあたる第11代公爵デイヴィッド・マナーズ(英語版)(1959-) である[12]。
邸宅はダービーシャーのハッドン・ホール(英語版)、レスターシャーにあるビーヴァー城(英語版)である[8]。現在は両方の建物が一般公開されている。
一族の家訓は「貴方の物を手に入れるために (Pour Y Parvenir) 」[8]。 現在の当主である第11代ラトランド公爵デイヴィッド・マナーズ
ハッドン・ホール(英語版)
ビーヴァー城(英語版)
現当主の保有爵位
第11代ラトランド公爵 (11th Duke of Rutland)(1703年3月20日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
第11代グランビー侯爵 (11th Marquess of Granby)(1703年3月20日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
第19代ラトランド伯爵 (19th Earl of Rutland)(1525年6月18日の勅許状によるイングランド貴族爵位)