ラテン語学校
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ラテン語学校(ラテンごがっこう、英語: Latin school)は、14世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ(特にカトリック圏)における中等教育のための学校で、イングランドにおけるグラマースクールに相当する。入学が許されていたのは男子のみで、女子はアカデミックな教育は必要ないとされていたためだった。教育の重点が置かれたのは、その名の通りラテン語の修得であった。ラテン語学校における教育においては、複雑なラテン語文法の学習が重視され、特に初期においては中世ラテン語がその対象となっていた。文法学は、トリウィウム(三学)の中でもリベラル・アーツ(自由七科)の中でも最も基礎的な学科であり、文法学を象徴する図像は、教師生徒の懲罰に用いるカンバ枝むちであった。ラテン語学校は、生徒に大学への準備をさせるところであり、中流階級の生徒たちには社会的上昇を可能にする途でもあった。このため、平民の子弟がラテン語学校に学ぶことも珍しくなく、その多くは聖職を目指す者であった[1]。14世紀にはヨーロッパの各地にラテン語学校が存在し、また、平信徒の子弟にも門戸が開かれていたが、後に教会は、いずれ聖職者となる者だけを教育する目的でラテン語学校を運営するようになった[2]1450年ころになると、ラテン語学校はルネサンス人文主義の影響を受けるようになる。イングランドではそのようにはなかったが、一部の国々では、大学や一部のカトリック教会がラテン語よりも各国語を重視するようになるにつれて、ラテン語学校は人気を失っていった[3]
歴史
中世における背景

ヨーロッパ中世世界においては、文法はあらゆる学問が依って立つ基礎であると考えられていた[4]グラマースクール(文法学校)やラテン・スクール(ラテン語学校)では、ラテン語を使ってラテン語を教えていた[3]。ほとんどすべての学問、大部分の法曹や行政関係の業務で、ラテン語が使用されており、もちろん教会の典礼もラテン語で行なわれていた。平信徒の中にも、正式に教えられたことがなくても、ラテン語を少々話したり、書いたりする者がいた[3]。裁判においても、ラテン語を解さない当事者にとって不公正であったにもかかわらず、訴訟手続きには全てラテン語が用いられ、とりわけ教会裁判ではそれが著しかった[3]

ラテン語学校の生徒は、多くの場合、5年ほど在学することになったが、3年生ともなるとラテン語の文法を「十分に理解した」とされて、下級生や劣等生の指導にあたる教師の補助を務めることがよくあった[5]。7歳の少年であれば 、入学年齢に達していると見なされ、入学そのものが、幼い子ども(early childhood)から少年(boyhood)への成長と見なされた。しかし、より年長の男性でも、授業料を支払いさえすれば、入学して学ぶことができた[6]。生徒たちは、通常は十代後半には学修を終えたが、聖職に進むことを望む者は24歳になって叙任されるまで在学して待機しなければならなかった。在学年数には通常は一定の制限があったが、例えば、その学校の創設者の親族である場合などに延長が認められることもあった[7]

ラテン語学校の運営は、委員会に委ねられており、委員会は教師を雇って賃金を支払った。この種の学校に対する町の行政当局の監督権限は、通常はごく限られたものであった。どこに所属しているわけでもないフリーランスのラテン語教師が、自ら学校を開き、授業料を支払う者なら誰にでもラテン語を教えることもよくあった。こうしたフリーランスの教師による学校は、教師の自宅で教えているのが通常であった。このほか、家庭教師として生徒の家に住み込んだり、毎日通って教える者もいた[8]。こうして学ぶ生徒は、小作農の子弟からエリートまで幅広い階層にわたっていた。もし、農奴の子が学校へ行きたいと望むようなことがあれば、その子の労働価値に見合うだけの補償金が主人に支払われることになっており、主人の承認がなければ学校には行けなかった[9]
ルネサンスから近世における受容

ルネサンスによって、知的、政治的、経済的、社会的な諸々の革新がヨーロッパで起こると、中世以来のラテン語学校に対する人々の態度にも変化が生じた。ルネサンス期の人文主義者たちは、中世ラテン語を「野蛮な隠語」だとして批判した[10]オランダの人文主義者デシデリウス・エラスムス1467年 - 1563年)は、ラテン語の教え方が悪いとして教会を非難した。エラスムスはローマ・カトリック教会内部における改革のためには、古典の学修がなされなければならないと主張した[11]。人文主義者たちの影響力は大きく、イタリア各地の領邦国家の住民たちは、新たな形態のラテン語教育を求めて声を上げ始めた [12]。こうして、ラテン語古典文学歴史修辞弁証法自然哲学算数に、少々の中世ラテン語古典ギリシア語、近代諸語などを教える様々な形態の学校が、登場するようになった。この新たなカリキュラムは「人文諸学 (ラテン語: Studia Humanitatis)」と称された[1]。イタリアの有力な都市国家においては、ラテン語学校が教育の基礎を担っていた[13]グラマースクール(文法学校)の校長職や、ラテン語文法、修辞学、方言の教授職は、学識豊かな人文主義者によって占められた[14]。人文主義者のひとりであったグアリーノ・ヴェロネーセ(グアリーノ・ダ・ベローナ)(Guarino Veronese:Guarino da Verona)は、人文学の学修を、入門、文法、修辞学の3段階から成るものとした[15]。人文主義者たちは、個人が学識を身につけること自体が社会の利益に貢献している、という信念を持っていた。このため、大部分の都市住民にとって、中等以上の水準の教育は、人文主義的教育と同義であった[12]。知的活動や、政治や経済に関わる組織は、古典ラテン語を修め、人文主義的文献の教育を受けた働き手を求めていたため、人文主義教育は個人に社会的地位の上昇の機会をもたらした[16]

学識ある者の言語であると見なされていたラテン語は、学問の世界においても尊重され、盛んに用いられた[17]。しかし、14世紀初頭の時点で、既に各国の俗語による文献の執筆が始まっていた[18]。こうした変化の結果として、また、ラテン語と俗語との交錯が上級段階の学修においてもしばしば生じていたことなどから、ラテン語学校が他の教育機関に対してもっていた優位性はやがて消えていった[19]
ラテン語教会学校

聖職者を養成する学校は、聖職者たちによって資金提供されることがよくあり、そこでは聖職者たちが教育にあたっていた。多くの歴史家の論によれば、1300年ころまでの中世イタリアにおいて、教育は教会によって独占されていたという[2]。ラテン語教会学校は、12世紀頃には成立していたようであるが、イタリア独特の、より明確な形態をとったラテン語学校が登場したのは14世紀以降である[8]15世紀末のスペインの一部地域では、司祭や聖具保管係が他者に読み書きを教えることを、教会が奨励していた[20]

宗教改革以降の時代になると、教会の執行部や牧師を養成するために独自の発展を始めたプロテスタント系のラテン語学校の勃興に対して、カトリック教会は対抗策を打ち出そうとした[1]。改革派のひとり、ジャン・カルヴァンは、ジュネーブ信仰問答(カテキズムのひとつ)とともにラテン語文法の教授も行なっていた[1]。そうした実践にもかかわらず、改革派の一部には、俗語を用いる方がより効率的であることを踏まえ、礼拝におけるラテン語の使用を止めたいと考える者もいた[21]。16世紀後半になると、カトリック側の対抗宗教改革(反宗教改革)が、公立学校制度の確立を後押しすることになっていった。イエズス会は、自ら各地に学校を設立し、無料でラテン語文法、哲学、神学、地理学、信仰教義、歴史などを少年たちに教えた。カトリック側の対抗宗教改革派にとっても、イエズス会にとっても、聖職者のみならず、平信徒にこうした教育を施すことが重要と考えられたのである。イエズス会は教育の意義を重視し、カトリックが優勢な各地において、ラテン語学校や他の中等教育学校の運営責任を他のカトリック系教団から引き継ぐこともあった[1]
ラテン語学校のカリキュラム

ラテン語学校のカリキュラムは、おもに古典期の作者と、一部の中世の作者による文章の読解に基礎を置いていた。生徒たちは、正式な形式に沿った書簡の書き方である書簡作文法 (ars dictaminis)の原理をまず修得しなければならなかった。書簡作文法の教科書の書き手たちは、生徒たちに文法を教える際に用いるべきテキストとしてラテン語の文献リストを提示していることがよくあった。しかし、教科書のテキストは、オリジナルそのままではないことも多く、しばしば、教訓譚を含むよう改変されたり、文法規則を例示するように書き換えられていた[22]。テキストは、寓話や詩文の形態をとることが多かった。新入生は、簡単な基本的文法から学び始め、徐々により難しいラテン語の読解に進み、丸覚えする統語論のマニュアル『Donatus』(4世紀の文法学者Aelius Donatusが作った文法書:口語の基本文法のみを扱った Ars Minor 段階)や、さらに進んだ用語集や辞書を使うようになっていく。多くの教師は、それぞれ様々な本を使用して教えていたが、最もよく使用された教科書は、『Doctrinale』であった[23]。『Doctrinale』は、ラテン語の文法についての長詩であった。この教科書は、口語、統語論、数量、修辞技法についての部分から構成されていた。この『Doctrinale』や、数多くの(さほど人気があったわけではない)教科書は、「教科書のカノン」と称される[22]。同様に、生徒たちが上級に進んで、本格的な書簡作文法段階に入ると、より論理的で実際的な、正式な散文体書簡の作成に焦点が当てられる。詩文は、ラテン語の学修に役立つだけでなく、記憶力を鍛え、「真実」に触れるものとして、しばしば教師が好む題材であった[22]。中世期には、古典期の詩は教材の一部に含まれていたものの、詩文はおもな学習素材ではなかった。しかし、ルネサンス期には、韻律法文体を修得するために、生徒たちは大いに古典期の詩文を学んだ。さらに、詩文の学習は、しばしば概念や、単語の分析を内容に含んでおり、ラテン語の文法や修辞法をより広い意味で学ぶ一環とも見なされていた[24]
書簡作文法:Ars Dictaminis

書簡作文法(Ars Dictaminis)は、中世後期に、宗教的、政治的指導者たちの傘下の組織の間で、社交的通信の需要が高まるにつれて、ひとつの分野として創出されたものである[22]修辞学は説得の手段と見なされており、それを支えるために書簡作文法には5つの要素が求められた。すなわち、「質問をどう表現するか」、「素材をどう示すか」、「適切な言葉と効果的な文体をどう選ぶか」、「どうやってすべてを記憶に残すか」、「適切な抑揚や身振りをどう見つけるか」である。しかし、ルネサンス期には、修辞学は、公的なり私的な書簡や、記録を、どのように書き記すのかという研究に展開していくことになった[25]。この修正された書簡作文法は、キケロの著作である『発想論 (de inventione)』と、かつてはキケロ作とされていた『ヘレンニウス宛弁論書 (Rhetorica ad Herennium)』から指針をとっていた。そこでは、「挨拶 (salutatio)」、「慈悲心 (benevolentiae)」(言葉遣いによって書簡の受け手から同意を獲得する)、「説話 (narratio)」(本題の論点)、「請願 (petitio)」、「結論 (conclusio)」の5つの要点が示されていた。この体系的なプレゼンテーションは、階層的組織を前提とした中世の嗜好に由来するものである[26]
人文諸学:Studia Humanitatis

人文諸学(Studia Humanitatis)は、近世人文主義者たちによって創始された新しいカリキュラムであった[12]。学問においてさらに上級へ進むためには、初等学校の段階から人文諸学のしっかりとした基礎を身につけることが必要とされた。1450年以降は、書簡作文法を学んだとしても、人文諸学を修めていなければ、法曹職につくことは難しかった[16]。人文諸学の教育を受けた者は、ラテン語古典文学歴史修辞弁証法自然哲学算数に、少々の中世ラテン語古代ギリシア語、現代の外国語などを教えられた[1]。大学に進む前の学術機関における人文主義的教育手法への教会の関与が後退していくに従って、非キリスト教徒の著作のテキストへの使用が広がった[16]ラテン語文法の学習のために書かれた会話を収めた1518年の書物『対話 (Colloquies)』は、エラスムスの著作で、当時最も人気の高い本のひとつとなった。人文諸学を学ぶ生徒たちは、政治や実業に関わる職種にも十分な準備ができているものと見なされた。このカリキュラムでラテン語古典文学やその他の科目を学ぶことで、個人は話し、議論し、雄弁かつ適切に文書を書くことができるようになった[12]


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