ラテン皇帝一覧
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ラテン皇帝一覧(ラテンこうていいちらん)では、エーゲ海沿岸に興った国家・ラテン帝国の歴代皇帝を列挙する。この帝国は第4回十字軍後の1204年コンスタンティノープルで樹立され、1261年に同都市がビザンツ・ギリシャ人(英語版)によって奪還されるまで続いた十字軍政権の国家を指す、歴史学上の慣習的な呼称である。この名称の由来は帝国のカトリック教会、並びに当時の西欧の人々(ラテン人)の性質に由来する。同国の公式名称はImperium Romaniae(ラテン語: ローマ帝国)であり、第4回十字軍によって解体されて分割された東ローマ帝国の直接の相続人であることを主張したが、この主張はビザンツ・ギリシャ人の後継国家であるニカイア帝国トレビゾンド帝国及びエピロス専制侯国によって異を唱えられた。最終的にはこれら三国の内の一つであるニカイア帝国が、1261年にラテン帝国に取って代わることに成功した。
コンスタンティノープルのラテン皇帝(1204年?1261年)

君主肖像画生誕戴冠備考逝去
ボードゥアン1世
1204年?1205年1172年
7月1204年
5月16日エノー伯ボードゥアン5世の息子。1205年
ブルガリア、ツァーレヴェツ(ブルガリア語版)の可能性あり
約33歳没
アンリ1世
1206年?1216年1174年1206年
8月20日エノー伯ボードゥアン5世の息子。1216年6月11日
約 42歳没
ピエール2世
1216年?1217年1155年1217年
4月9日フランス王子ピエール1世とエリザベート・ド・クルトネー(フランス語版)の息子。ヨランドと結婚。1219年
約64歳没
ヨランド(摂政)
1217年?1219年エノー伯ボードゥアン5世の娘でボードゥアン1世の妹、アンリ1世の姉。ピエール2世と結婚、彼の幽閉時に摂政を務めた。1219年8月
44歳没
ロベール1世
1221年?1228年1221年
3月25日ピエール2世とヨランドの息子。1228年1月
アカイア公国モレア
ジャン(摂政)
1229年?1237年1170年1237年3月27日
67歳没
ボードゥアン2世
1228年?1261年1217年1240年
4月15日ピエール2世とヨランドの息子。1273年10月
シチリアフォッジャ
43歳没

亡命ラテン皇帝(1261年?1383年)カトリーヌ・ド・クルトネーの印章。

ボードゥアン2世 (1261年?1273年)、コンスタンティノープルより亡命。

フィリップ1世 (1273年?1283年)、その息子。

カトリーヌ1世 (1283年?1307年)、その娘。

シャルル・ド・ヴァロワ (1301年?1307年)、その夫。

カトリーヌ2世 (1307年?1346年)、上記両人の娘。

フィリッポ1世 (1313年?1332年)、その夫。

ロベルト2世 (1346年?1364年)、上記両人の息子。

フィリッポ2世 (1364年?1373年)、その弟。

ジャック・デ・ボー (1373年?1383年)、その姉のマルゲリータの息子。

ジャック・デ・ボーは自身の名目上の請求権をナポリ王位請求者でもあるアンジュー公ルイ1世に遺稿したものの、ルイ1世とその子孫がラテン皇帝の称号を使用することは一度もなかった。
系図

   フランドル家         ルイ6世
フランス王 クルトネー家 

                                
           
 ボードゥアン5世
エノー伯
フランドル伯(8世)
ナミュール侯 マルグリット1世
フランドル女伯       ピエール1世・ド・クルトネー エリザベス・ド・クルトネー エデッサ伯家 
    
                          
               
 ボードゥアン1世
フランドル伯(9世)
エノー伯(6世) マリー
(シャンパーニュ伯アンリ1世娘) アンリ1世 ヨランド
ナミュール女侯 ピエール2世 ジャン・ド・ブリエンヌ
(摂政)
    
                              
      
   フランドル家       ロベール1世 ボードゥアン2世
ナミュール侯 マリー シャルル・ダンジュー
シチリア王
ナポリ王
アカイア公 
  
                                 
      
                   フィリップ1世 ベアトリス カルロ2世


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