ラテン帝国
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ロマニア帝国
Imperium Romaniae

1204年 - 1261年


(国旗)(国章)

ラテン帝国(黄色、薄黄色、薄黄色は建国後まもなく離脱)

公用語ラテン語
古フランス語
首都コンスタンティノポリス
皇帝
1204年 - 1205年ボードゥアン1世
1206年 - 1216年アンリ
1216年 - 1217年ピエール・ド・クルトネー
1221年 - 1228年ロベール
1228年 - 1261年ボードゥアン2世

変遷
建国1204年
ニカイア帝国により滅ぼされる1261年

通貨ソリドゥス

ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍コンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。ラテン帝国という国名は東ローマ帝国側からの呼称であり、正式名はロマニア帝国(ラテン語: Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。

1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。目次

1 概説

2 文化・国制

3 歴史

3.1 建国

3.2 ボードゥアン9世の治世

3.3 中興

3.4 アンリの死と衰退・滅亡、皇帝位の行方


4 その後

4.1 ボードゥアン2世


5 歴代皇帝

6 年表

7 関連項目

概説

1204年 - 1261年に存在した帝国であり、ラテン帝国は、第4回十字軍コンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後にコンスタンティノポリスにボードゥアン9世により建国された。カトリックを宗教とし、元来のギリシア正教会を否定した。いわゆる十字軍国家の1つであり、実質的にはヴェネツィア共和国に資本、軍事を一切委ねた形であった。

ラテン帝国という国名はニカイア帝国側からの呼称であり、正式名はロマニア帝国といい、ロマニアとは「ローマ人の地」の意味であった。そのため、東ローマ帝国の後継であると自称しているということが伺える。

元来、経済基盤や権力は惰弱であったため、常にニカイア帝国、ブルガリア帝国、モレアス専制公国などの、東ローマ帝国の亡命政権やギリシア正教会系の国家の脅威にさらされ続けていた。ヴェネツィア共和国の後援も乏しくなると、ついに末期的症状を見せるようになり財政も破綻した。

1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。皇帝は、亡命し、イタリアに渡った。
文化・国制

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歴史

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建国 建国者ボードゥアン9世像

1204年、コンスタンティノポリス陥落後の選挙の結果、フランドル伯ボードゥアン9世が初代皇帝に選出された。これは前東ローマ皇妃(ハンガリー王女)と結婚して、ギリシアハンガリーの支持を得たモンフェッラート侯ボニファーチョ1世が強力になるのを恐れたヴェネツィア側が、より弱体なフランドル伯を支持したためであり、ボニファーチョ1世はこれを不満とし、最初から不協和音が流れていた。
ボードゥアン9世の治世

ボードゥアン9世は、5月16日に初代皇帝ボードゥアン1世として即位し、旧東ローマ帝国領の全土の征服を目指した。当初は順調に征服が進むかに見えたが、東ローマ帝国のギリシャ人貴族層を冷遇し、東方正教会の聖職者達にはローマ・カトリックの典礼を強制したため、ギリシャ人の不満は高まりだした。貴族達は東ローマ帝国の皇族達が各地に建てた亡命政権へ参加したり、ブルガリア帝国(ワラキア=ブルガリア)と協力するなどしてラテン帝国へ抵抗し、聖職者達は協力を拒否した。

一方、ラテン帝国の領土は十字軍の騎士達に封土として分割されたため、存立基盤が弱く、指導者の1人だったモンフェッラート侯ボニファーチョ1世は皇帝ボードゥアン1世と対立し、ギリシアにテッサロニキ王国を築いて半独立の構えを示した。ヴェネツィアの関心は群島領土と海港の保持と制海権のみで、帝国の内陸部には興味を示さなかった。

この情勢を見た亡命政権の1つニカイア帝国テオドロス1世ラスカリスは、ブルガリア王カロヤン=ヨハニッツァと結んで、ラテン帝国と対峙した。

1205年、侵攻してきたカロヤン=ヨハニッツァのブルガリア軍と対戦したラテン帝国軍は大敗し、指導者の1人だったブロワ伯ルイは戦死、皇帝ボードゥアン1世は捕虜となった。勢いづいたブルガリア軍は各地を蹂躙し、ラテン帝国側は首都コンスタンティノポリスの他にはいくつかの主要都市を維持するだけであり、同年には頼みのエンリコ・ダンドロも病死し、早くも滅亡寸前となった。
中興 アンリ・ド・エノー テッサロニキ王ボファニーチョ1世

しかし、ブルガリアのあまりに激しい略奪のため、ギリシャ人は再びラテン帝国を頼るようになった。摂政に立ったボードゥアン1世の弟アンリ・ド・エノーは、ギリシャ人に融和的な政策をとって彼等の支持を受ける一方で周囲を制圧し、東ローマ亡命政権のエピロス専制侯国ニカイア帝国とも有利な条件で講和を結ぶことに成功する。また、テッサロニキ王国のボニファーチョ1世とも、彼の娘と結婚することで和解した。
アンリの死と衰退・滅亡、皇帝位の行方

しかし、1216年にアンリが死去すると帝国は再び衰退しはじめ、1229年にエルサレム王だったジャン・ド・ブリエンヌを迎えて建て直しを計ったが大勢は変わらず、最後の皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネーの治世は西欧からの援助を請う事だけに費された。1261年ラテン帝国軍が出払っている隙に、ニカイア帝国軍にコンスタンティノポリスを占領され、滅亡した。ボードゥアン2世はイタリア半島に亡命、次いでナポリ王国に亡命した。
その後

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ボードゥアン2世の息子で、名目上のラテン帝国の皇帝フィリップ1世・ド・クルトネー


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