ラッフィ・ホヴァニスィアン
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アルメニア政治家ラッフィ・K・ホヴァニスィアン????? ?. ????????????
2013年のホヴァニスィアン
生年月日 (1959-11-20) 1959年11月20日(64歳)
出生地 アメリカ合衆国カリフォルニア州フレズノ郡フレズノ
出身校カリフォルニア大学ロサンゼルス校
フレッチャースクール
ジョージタウン大学ローセンター
前職歴史学者弁護士
所属政党遺産(英語版)
配偶者アルメヌヒ
子女4男1女
外務大臣
在任期間1991年10月7日 - 1992年10月16日
国民議会議員
当選回数2
在任期間2007年[1] - 2017年
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ラッフィ・K・ホヴァニスィアン(アルメニア語: ????? ?. ????????????、英語: Raffi K. Hovannisian、1959年11月20日 - )は、アメリカ合衆国出身の、アルメニア政治家である。カリフォルニア州フレズノで、アルメニア系アメリカ人歴史家のリチャード・G・ホヴァニスィアン(英語版)の息子として生まれ、歴史学者弁護士として暮らしていた。しかしペレストロイカ期にアルメニア・ソビエト社会主義共和国へ渡り、その後ソ連からアルメニアが独立すると、1991年から翌1992年まで初代外務大臣(英語版)を務めた。しかしその対外強硬路線から外相辞任に追い込まれ、その後は2002年に反対政党「遺産(英語版)」を設立し、自らその党首となった。
経歴
前半生

1959年11月20日、歴史家であるリチャード・G・ホヴァニスィアン(英語版)を父として[1]カリフォルニア州フレズノで生まれた[2]ロサンゼルスのパラセイズ・チャーター・ハイスクール(英語版)在学中にアルメニア革命連盟の青年組織であるアルメニア青年連盟 (en) に加盟し、後にそのカリフォルニア支部長となった[3]

1977年から翌年までカリフォルニア大学バークレー校で政治学を学び、1979年にはロサンゼルス校へ移ってアルメニア史を学んだ[2]。翌1980年に歴史学と近東学のBAを取得し、首席で大学を卒業した[2]1981年から翌年までタフツ大学で歴史学の教鞭を取り、1982年フレッチャースクールから法律・外交のMAを取得した[1]ジョージタウン大学ローセンターからJDを取得してからは、1985年から1989年まで、国際法と民事の弁護士として、ストローック (en) やコーダート・ブラザーズ (en) など[2] ロサンゼルスの法律事務所で活動した[1]。同時期にはアルメニア法曹協会の設立者兼会長にもなった[2]

1988年10月、ホヴァニスィアンは『ロサンゼルス・タイムズ』にカラバフ運動(英語版)を支持する記事を執筆した[4]。同月12日にはスピタク震災に襲われたばかりのアルメニア・ソビエト社会主義共和国へ入り、1990年2月からエレヴァンのアジズベコフ広場 (hy) 近郊で、ワンルームのアパートメントに住むようになった[5]。同年秋には家族もエレヴァンへ呼び寄せた[6]。また、ホヴァニスィアンはアメリカ・アルメニア人議会 (en) のエレヴァン事務局長も務めた[7]
アルメニア外相として

ソビエト連邦からアルメニアが独立した直後の1991年10月7日、ホヴァニスィアンは初代外務大臣(英語版)に指名され、翌1992年3月2日にはアルメニア外相として、ニューヨーク国連本部ビルアルメニアの国旗を掲げた[8]。だが、同時にホヴァニスィアンは、アルメニア人虐殺の承認(英語版)をトルコに行わせ、補償を得るという在外同胞の宿願に強く固執した[9]。これは、ナゴルノ・カラバフ戦争の対処に追われ、これ以上の対外関係悪化を望まなかったレヴォン・テル=ペトロシャン大統領との対立を招き[9]、ホヴァニスィアンは同年10月16日には辞任に追い込まれた[10]。しかし、辞任直前の同年9月に『ロサンゼルス・タイムズ』が報じたところによれば、ホヴァニスィアンの支持率は98パーセントとテル=ペトロシャンを遥かに上回るものであり、エレヴァンに失業者の間でもホヴァニスィアンの支持は高いものであったという[11]
野党政治家として

2001年にホヴァニスィアンはアルメニアに帰化したが、2003年の大統領選挙(英語版)に際して裁判所は、自身が1991年の時点で帰化申請を行っていたとのホヴァニスィアンの訴えを認めなかった[12]


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