ラット_(バンド)
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ラット
Ratt
クラシックメンバー 『インフェステイション』ツアーにて (2010年8月)

バンド ロゴ
基本情報
別名Mickey Ratt (1976年-1981年)
Bobby Blotzer's Ratt Experience (2016年- )
出身地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州サンディエゴ
ロサンゼルス
ジャンルLAメタル
グラムメタル
ヘヴィメタル
ハードロック
活動期間1981年 - 1992年
1997年 - 現在
レーベルアトランティック・レコード
ポートレイト/エピック・レコード
ロードランナー・レコード
共同作業者オジー・オズボーン
ドッケン
公式サイトTHERATTPACK.COM

メンバースティーヴン・パーシー (Vo)
フアン・クルーシエ (B)
ジミー・デグラッソ (Ds、サポート)
(Bobby Blotzer's Ratt Experience)
ボビー・ブロッツァー (Ds)

旧メンバーロビン・クロスビー (G)
ウォーレン・デ・マルティーニ (G)
ほか別記参照
ディープ・パープル
キッス
エアロスミス

ラット(Ratt)は、アメリカ合衆国出身のロックバンド

1980年代に隆盛したLAメタルの代表的存在で、モトリー・クルーと双璧をなす人気を誇り、全米で1600万枚、全世界で3000万枚以上のアルバム総セールスを記録した。

2018年の時点でバンドは、スティーヴン・パーシー(ボーカル)らと、ボビー・ブロッツァー(ドラム)の2派に分裂している。
略歴
結成?改名

[1]1978年スティーヴン・パーシー(ボーカル)を中心にカリフォルニア南部サンディエゴで「ミッキー・ラット (Micky Ratt)」を結成。その後ロサンゼルスへ拠点を移し、後にオジー・オズボーンに選ばれるギタリストジェイク・E・リーが参加する。

1981年、バンド名を「ラット」に改名。リーを含む初期のメンバーらが「ラフ・カット」を結成するためグループを脱退。バンドはパーシーと残留したギタリストロビン・クロスビーを中心にメンバーを再編する。リハーサル、ライブを重ねた末、ドラマーとしてボビー・ブロッツァーが加わり、またパーシーとクロスビーの地元サンディエゴから当時18歳のギタリストウォーレン・デ・マルティーニが参加。最後にベーシストのフアン・クルーシエがドッケンを脱退してバンド加入し、ラインナップが固まる。

1983年8月に自主制作のEP『ラット』でデビュー。派手なファッションと化粧、明るく開放的な音楽性は「ラットン・ロール(RATT N' ROLL)」と呼ばれて人気を博し、モトリー・クルーとともにLAメタルのブームを牽引した。

このバンドがLAメタル特有の独特なスタイルを築いた経緯はベーシストのクルーシェがドッケンの元メンバーであったことによる効果もあるが、それ以上にバンドの作曲面での中心人物であったクロスビーと「モトリー・クルー」の中心人物であるニッキー・シックス(ベース)がそもそものルームメイト同士であった由縁が強いとされる。
メジャー・デビュー?解散

大手レーベル「アトランティック・レコード」と契約して音楽プロデューサーのボー・ヒルの元、1984年3月にメジャー・デビュー・アルバム『情欲の炎』(全米チャート7位)をリリース。シングル「ラウンド・アンド・ラウンド」がMTVを通じて全米でヒットを起こし、日本ではSONY MUSIC TVを通じてラットブレイクのきっかけとなった。

1985年7月にセカンド・アルバム『インヴェイジョン・オブ・ユア・プライヴァシー』をリリース(全米チャート7位)。特にシングル・ヒット「レイ・イット・ダウン」のプロモーション・ビデオに当時の『PLAYBOY』誌のモデルであったマリアンヌ・グラヴァットが出演、PMRCによる検閲を受けることでグラム・メタルのグラマラスなイメージを高めていった。オジー・オズボーンやボン・ジョヴィらとともにイギリスアメリカ日本などで公演を行い9月にイギリス・ドニントンでのモンスターズ・オブ・ロックに出演する。

1986年8月にサード・アルバム『ダンシング・アンダーカヴァー』をリリース。この頃からメイン・ソングライターの座がクロスビーからデ・マルティーニへ徐々に移っていく。収録曲「ボディ・トーク」がエディ・マーフィ主演の映画『ゴールデン・チャイルド』に起用された。若手の「ポイズン」をサポートに起用し1987年にかけてアメリカ国内、ヨーロッパでツアーをおこなう。同年2度目の来日公演。

1988年11月に4枚目のアルバム『リーチ・フォー・ザ・スカイ』をリリース。1989年3度目の来日公演。

1990年8月に5枚目のアルバム『ディトネイター』をリリース。メジャー・デビュー以降、すべてのアルバムをプロデュースしてきたヒルが制作を離れ、加えてクロスビーを完全にコンポーザーの立場から排除した体制に変更した上でヒットメイカーであるデズモンド・チャイルドを起用、ジョン・ボン・ジョヴィもゲスト参加、と話題となるも結果的にバンドカラーであったラットンロールの勢いを失う作品となりバンド初のプラチナムに届かない作品となった。

時代は既にグランジの様なオルタナティヴ・ロックの時代に移っており多くのグラム・メタルのグループは大手レーベルの契約を失う様になっていった。別の問題としてクロスビーは重度のヘロイン中毒に陥っていた。

1991年2月の来日公演後、クロスビーのリハビリに伴い、マイケル・シェンカー(ギター)がグループをサポートすることになる。同年9月発売のベスト・アルバム『ラットン・ロール 8191』を最後に、アトランティック・レコードから契約を解除される。すでにクロスビーは新しいグループで活動を開始した事情もあり、1992年にバンドは解散した。
再結成?クロスビー死去ジジー・パール(ボーカル)、ジョン・コラビ(ギター)在籍時 - シカゴ公演 (2005年9月)

ロビン・クロスビーは1991年夏、「Secret Service」を結成。翌年2月に日本武道館で行われたマザーエンタープライズ主催イベント「1万人の一本締め」参加のために来日。過去の「ラットン・ロール」キャンペーンを執り仕切ったツアーマネージャーと共に来日するも、彼はポーラ・アブドゥルの公式スタッフであったため、ポーラ本人を含めたアブドゥル初来日公演クルーご一行と相席便乗となる珍現象が発生。


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