ラッセ・ビレン
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ラッセ・ビレン

ラッセ・ビレン、1974年頃
選手情報
フルネームラッセ・アルットゥリ・ビレン
Lasse Artturi Viren
国 フィンランド
国籍 フィンランド
競技陸上競技
種目中距離走
長距離走
所属ミュルスキュラン・ミュルスキュ(フィンランド語版)
生年月日 (1949-07-22) 1949年7月22日(74歳)
生誕地フィンランド、ミュルスキュラ(英語版)
身長180 cm[1]
体重59?61 kg
自己ベスト5,000 m: 13:16.4(1972年)
10,000 m: 27:38.35(1972年)
マラソン: 2:13:11(1976年)[2]

獲得メダル

陸上競技
オリンピック
金1972 ミュンヘン5000m
金1972 ミュンヘン10000m
金1976 モントリオール5000m
金1976 モントリオール10000m
ヨーロッパ陸上競技選手権大会
銅1974 ローマ(英語版)5000m


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ラッセ・ビレン(フィンランド語: Lasse Viren、1949年7月22日 - )は、フィンランドの陸上競技長距離選手。1972年ミュンヘンオリンピック1976年モントリオールオリンピックでともに男子5000m、10000mで二種目二大会連続の金メダル獲得を達成した。またモントリオールオリンピックではマラソンにも出場し、1952年ヘルシンキオリンピックエミール・ザトペック以来の長距離3冠を目指したが5位に終わり、達成はならなかった。ビレンは1920年代にハンネス・コーレマイネンパーヴォ・ヌルミビレ・リトラらが作り上げたフライング・フィンの人物像を再現、1972年と1976年にフィンランド年間最優秀スポーツ選手に選ばれた。1999年から2007年まで、および2010年から2011年まで、フィンランド議会の議員を務めた。
生涯
初期の経歴

ビレンの走者としての経歴はアメリカのユタ州プロボにあるブリガムヤング大学で始まった。彼はブリガムヤング大学のクロスカントリーチームで大学の代表として1シーズン走った後、フィンランドに帰国した。その後は故郷のミュルスキュラ(英語版)で警察官として就職したが、1971年に国際でデビューした。この年にヨーロッパ選手権がヘルシンキで行われたが、フィンランド選手のうち活躍したのは主に5000メートル競走と10000メートル競走で金メダルを獲得したユハ・ヴァータイネン(英語版)であり、ビレンはそれぞれ7位と17位に留まった。ビレン自身とコーチのロルフ・ハイッコラ(フィンランド語版)によると、ビレンの成績は2つの理由によりビレンの能力よりも下回っていた。1つは「排出練習」(Emptying exercise)をもっと早くしなかったこと(ハイッコラによると、フィンランド陸連の首脳部のアドバイスに従ってのことだった)、もう1つはビレンがほぼ限度に駆り立てられており、5000メートル競走の決勝戦では最後の1周が始まるころに危うく倒れるところだった。「排出練習」とは走者が完全に疲労してエネルギーを使い果たす(エネルギーを「排出」)までトレーニングで限度に駆り立てることであり、そうすることで体が再び大量にエネルギーを取り入れられるようになり、これまでの最良の成績を再度出せるようになる。ビレンはヨーロッパ選手権の直後、ヴァータイネンが5000メートル競走で作ったばかりのフィンランド記録を更新した[3]

ケニアのトムソンの滝(英語版)で厳しい訓練を受けた後、1972年夏にヘルシンキで行われた競走においてイギリスとスペインを下して勝利、2マイル競走の世界記録を作った。その後、ビレンはダークホース(英語版)として1972年ミュンヘンオリンピックに参加した。
1972年オリンピック

ミュンヘンで行われた1972年のオリンピックでは5000メートル競走と10000メートル競走の金メダルを獲得した。9月3日に行われた10000メートル競走の決勝戦では12周目にベルギー選手エミール・プッテマンスともつれあって転倒したにもかかわらずロン・クラークが7年間保持した男子10000メートル競走世界記録(英語版)を更新した。ビレンとプッテマンスのほかにはチュニジアモハメド・ガムーディ選手もビレンの足に躓いて転倒した。転倒したことによりビレンは先頭集団と20メートル離れてしまったが、彼は150メートル以内に先頭に追い付いた。その後、24周目になって残りが600メートルしかないところ、彼はラストスパートをかけて他を引き離し、プッテマンスのみがついていけて2着でゴールした。ビレンは27分38.40秒でゴール、ミュンヘン・オリンピアシュタディオンの記録となった。彼は1回のオリンピックで5000メートルと10000メートル競走を同時に勝利した4人目の選手であり、それ以前はフィンランド選手ハンネス・コーレマイネンが1912年に、チェコスロバキア選手エミール・ザトペクが1952年に、ソ連選手ウラジミール・クーツが1956年に達成しており、ビレンの後はエチオピア選手ミルツ・イフターが1980年に、同じエチオピア選手ケネニサ・ベケレが2008年に、イギリス選手モハメド・ファラーが2012年と2016年に達成した。しかし、10000メートル競走の予選も走らなければならなかったのはコーレマイネン、ビレンとイフターの3人だけだった。


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