ラッキー・デューベ
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ラッキー・デューベ
出生名Lucky Philip Dube
生誕 (1964-08-03)
1964年8月3日
南アフリカ共和国東トランスファール州(現ムプマランガ州)エルメロ
死没

2007年10月18日(2007-10-18)(43歳)
 南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ
ジャンルレゲエンバカンガ
職業歌手
活動期間1982 - 2007年
レーベルライコディスク、ギャロ・レコード他
共同作業者ラヴ・ブラザーズ
公式サイト ⇒http://www.luckydubemusic.com/

ラッキー・デューベ (Lucky Dube, 1964年8月3日 - 2007年10月18日) は南アフリカ共和国レゲエ歌手[1]ズールー語英語アフリカーンス語を使い、25年にわたる活動を経て22枚のアルバムを発表し、南アフリカで最も人気のあるレゲエアーティストとして知られていた[2][3]。2007年10月18日、ヨハネスブルグロゼッテンビル地区で強盗に襲われ殺害された[3][4][5]
目次

1 来歴

1.1 幼少期

1.2 初期の音楽活動

1.3 レゲエへの傾倒

1.4 商業的成功

1.5 死

1.6 追悼の動き


2 ディスコグラフィ

2.1 ンバカンガ

2.2 アフリカーンス

2.3 レゲエ

2.4 コンピレーション


3 脚注

4 参考文献

5 外部リンク

来歴
幼少期

ラッキー・デューベは1964年8月3日、南アフリカの東トランスファール州(現ムプマランガ州)エルメロで生まれた。出生時、既に両親は離婚しており、デューベは母親サラによって育てられた。サラは彼を生むまでに何度か流産を経験していたため、この出産を大変幸運なことだと考え彼を「ラッキー」と名づけた[6]

母親が出稼ぎに出ていたため、デューベは兄弟姉妹のサンディとパトリックと共に、幼少期の多くの時間を祖母の下で過ごした。デューベは1999年のインタビューにおいて祖母のことを「責任を持って自分を育ててくれた、今でも自分が一番愛している人」と語っている[7][8]
初期の音楽活動

少年時代のデューベは植木職人として働いていたが、成長するにつれその仕事では家族を養うに充分な収入を得ることは難しいと考えるようになり、学校に通い始めた。そこで彼は聖歌隊に加わり、またそこで出会った友人らとスカイウェイ・バンド (The Skyway Band) というバンドを結成した[8]。また、デューベがラスタファリ運動に出会ったのもこの時期であった。

18歳の時、彼のいとこもメンバーにいたムバカンガバンド、ラヴ・ブラザーズ (The Love Brothers, 後にスーパーソウル (The Supersoul) に改名) に参加した。デューベは学業に加え、ミッドランド (en:Midrand) にあるHole and Cooke社の自動車オークション会場の警備員として働きながらバンド活動を続けた。徐々に人気を増したラヴ・ブラザーズは音楽プロデューサーのリチャード・シルマ (Richard Siluma) に見出され、ティール・レコード (Teal Record Company) と契約した。このときデューベはまだ在学中であったため、学校休暇期間中にレコーディングを行った。このときの作品はレコード会社の意向で結果的に『Lucky Dube and the Supersoul』というタイトルでリリースされた。このファーストアルバムがヒットしたので、すぐにセカンドアルバムもリリースされた。この頃からデューベは作詞英語の勉強をし始めた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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