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ラッカセイ(落花生、 学名: Arachis hypogaea; 英語: peanut [注 1]または groundnut)は、マメ亜科ラッカセイ属の一年草。食用にされる種子は別名ナンキンマメ(南京豆)、ピーナッツともいう。
リンネの『植物の種(英語版)』(1753年) で記載された植物の一つである[1]。 日本における地方名に、沖縄方言の地豆(ぢまめ、ジーマーミ)、唐人豆(とうじんまめ)、異人豆(いじんまめ)、鹿児島県でのだっきしょ(落花生)、ドーハッセン、ローハッセン(落花生、長崎県)などがある。 英名 peanut は「pea(マメ科植物)からとれるナッツ」の意で、本種から受ける印象を端的に言葉にしたもの。一説に、同じ意味の米国南部方言 pinder が異分析により転訛したものという[2]。 草丈は25-50センチメートル。夏に黄色の花を咲かせる。花が咲く前に自家受粉する。受粉後、数日経つと子房柄(子房と花托との間の部分)が下方に伸びて地中に潜り込み、子房の部分が膨らんで地中で結実する(=地下結実性)。 南米原産で東アジアを経由して、江戸時代に日本に持ち込まれたと言われている。日本では主に食用として栽培されている。 花が落ちるようにして(花が受粉して落ちて)地中で実を生むことから「落花生」という名前が付けられた。 掘り出した殻付きラッカセイ 原産地は南アメリカ大陸である。最も古い出土品は、ペルーのリマ近郊にある紀元前2500年前の遺跡から出土した大量のラッカセイの殻である[3]。また、紀元前850年頃のモチェ文化の墳墓にあった副葬品にラッカセイが含まれていることから、ラッカセイが生活の中で重要な位置を占めていたことが分かる[3]。 その後、メキシコには紀元前6世紀までに伝わっていた。16世紀のスペイン人修道士の記録では、アステカ族はラッカセイを食糧ではなく薬と考えていた[3]。また、カリブ海の島々でもラッカセイの栽培は行われており、そこでは重要な食糧とされていたという。 大航海時代の始まりで、ラッカセイはヨーロッパにも紹介されたが、土の中で成長するラッカセイはそれまでのマメ類の常識とはかけ離れた、奇妙な存在と感じられた[3]。気候もあまり適さないことから、ヨーロッパでの栽培はあまり行われなかった。 南アメリカ以外にラッカセイの栽培が広がったのは16世紀中頃である。ポルトガルの船乗りたちが西アフリカ-ブラジル間の奴隷貿易を維持するためにアフリカに持ち込んだのが始まりで、そのまま西アフリカ、南部アフリカ、ポルトガル領インドに栽培地が広がっていく[3]。ほぼ同時期にスペインへ伝わったラッカセイは南ヨーロッパ、北アフリカへと渡っていく。さらにインドネシア、フィリピンへの持ち込みもほぼ同時期である。 日本には東アジア経由で1706年にラッカセイが伝来し、「南京豆」と呼ばれた。ただし、現在の日本での栽培種はこの南京豆ではなく、明治維新以降に導入された品種である。 18世紀以前の北アメリカでは、ラッカセイは家畜の餌か黒人奴隷向け食糧として栽培されていた。アメリカ合衆国における南北戦争による食糧事情の悪化により白人もラッカセイを食べるようになり、「ピーナツ」と呼ばれ愛されるようになった[6]。 1895年に、ジョン・ハーヴェイ・ケロッグがピーナッツバターの特許を申請。1921年には、ジョゼフ・ローズフィールド ラッカセイの実を食べる時は、殻(莢、豆果)のまま炒るか殻からむいたものを炒ることが多い。炒った後にバターやパーム油などを絡めて風味づけすることもある。 また、殻のまま塩茹でにしたものは「茹でピー」とも呼ばれる[5][注 2]。日本では、北海道、東北地方、千葉県の一部では節分の豆まきで殻付きで炒った落花生を用いる地域もある。 中国や台湾では殻ごと塩、八角などの香辛料を加えた湯で茹でる調理や、蒸篭で蒸すことも多い。
名称
特徴
栽培史
利用
食用