ラッカの戦い
シリア内戦中
2013年10月時点での戦闘と支配権の推移
シリア陸軍の支配 反体制派の支配
時2013年3月3?6日[3]
(3日間)
場所シリア・ラッカ
結果
反体制派の圧勝
反体制派がラッカを制圧[3]
反体制派が市内の2人の政府高官を拘束[4]
第17師団は本部に向かって北へと撤退した。
衝突した勢力
シリア・イスラム戦線
シリア・アラブ共和国
シリア軍
指揮官
アル=ヌスラの県最高司令官(名前不明) †[5]
シャーム自由人イスラム運動の県最高司令官(名前不明) †[5]
Moataz Raslan大佐 (FSA最高司令官)[6]Khaled al-Halabi准将 (ラッカ県の治安責任者)[7]
ハサン・ジャラーリー少将(捕虜)
(県知事)[7]
スレイマン・スレイマン (捕虜)
(バアス党県事務局長)[7]
部隊
ラッカ解放戦線[8]
Ahfad al-Rasul Brigades
Liwa Owais al-Qorani
Muntasir Billah Brigade
Raqqa Revolutionaries Brigade
Euphrates Knights Brigade
Islamic Unity and Liberation Front
Hudhayfah ibn al-Yaman Brigade
Victory of Saladin Battalions
シャーム自由人イスラム運動[8]
ラッカ管区旅団
征服旅団
Ghuraba al-Sham Battalion[9]
シリア・アラブ陸軍
第17師団
シリア空軍
地方警察
戦力
?戦闘員7,000人[10]兵士400人
被害者数
40?50人死亡[5][11][12]30人死亡[5][13][14]
300人捕虜[15]
3月4日から5日までに民間人100人以上が死亡(シリア人権監視団の推定)[16]
3月6日の空襲で39人が死亡[14]
ラッカの戦い(2013年3月)(反体制派のコードネーム 「神の襲撃[8]」)は、シリア内戦中のスンニ派イスラム主義者を主体とする反体制派勢力とシリア陸軍とのシリア北部の都市ラッカの支配を巡る戦いである。 反体制派勢力は2013年3月上旬に攻撃を開始し、2013年3月5日には「ほぼ全面的な支配」を宣言したことでシリア内戦で反体制派の支配下に置かれたと主張された最初の県都となった[17]。反体制派側の戦いは主にアル=ヌスラ戦線[18]とシャーム自由人イスラム運動[8]が主導した。 ラッカは当初反体制派の拠点ではなく、蜂起の初めに市内でいくつかの小規模な抗議活動が行われたがこれらはすぐに収まった。市内の反アサド分子も2012年末まで平和的であった。さらに、かつての親政府の部族連合と、主にイドリブ、デリゾール、アレッポから避難した50万人以上のシリア人の存在は、ラッカが比較的安全であるというシリア政府の意見を強化するのに役立った[19]。この見方のために、 バッシャール・アル=アサド大統領は2012年6月にラッカを訪れ、同市のモスクの一つでイード・アル=アドハーのために祈りをささげた[19]。 武装した反体制派グループがシリア東部に広がり始め、政府と反体制派勢力の両方によって暴力が実行された。市外のカータニヤ地域で事件により数十人の人々が殺害された。砲撃はタル・アブヤドの町のガソリンスタンドにも到達した[19]。 2013年初頭までに、シリアの反体制派はシリア北部の大部分を確保したが、大都市の支配権をまだ握っていなかった。反体制派は、政府軍が支配しているラッカを掌握しシリア北部のさらなる部分を事実上の支配下に置くための攻撃計画を立てた[20][21]。 ラッカ周辺地方に拠点を置くスンニ派イスラム主義者を主体とする反体制派グループは、3月3日から5日に都市に押し寄せ、都市の北から攻撃を開始し最北の入り口にある軍隊の陣地を支配した[22]。戦闘に参加した反体制派の大半はラッカ県外の地域から来ていた[8]。反体制派は県の主要な建物の周りでバッシャール・アル=アサドに忠実な軍隊と激戦を繰り広げ、最終的に軍を追い出した。反体制派勢力は3月4日に市内のメイン広場の支配権を握り、現大統領の亡父であるシリア元大統領ハーフィズ・アル=アサドの大きな黄金の像を象徴的に破壊した[17]。 アル=アフバールによると、市(四方を検問所に囲まれていた)は軍事的に陥落しなかったが、手強いシリア軍の配備がないにもかかわらず、ラッカが数時間で陥落したのは普通ではなかったと指摘した。レバノンの新聞は、東部検問所に配備されたシリア軍が攻撃の朝に撤退し、市の東側の入り口と東部地区全体をMuntasir Billah旅団とアル・ヌスラの戦闘員に引き渡した一方で、シリア軍事警察の警官と国境警備隊のハジャナは、反体制派旅団の侵攻前に市内中心部から第17師団の本部へと戦闘員からの嫌がらせを受けることなく彼らの装備を移動させているのを目撃されていると報じた[7]。 反体制派はまた、県知事ハサン・ジャラーリーの住居を襲撃し、バアス党のラッカ県支部長のスレイマン・アル=スレイマンとともに彼を捕らえたと伝えられている[21]。 政府軍は都市の西および東から撤退し、都市から60キロ離れた地方空港に留まった[22]。
背景
戦闘