ラッカの戦い_(シリア内戦)
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ラッカの戦い(ラッカのたたかい)は、シリア内戦下の2011年以降、シリアの都市ラッカで行われた主な戦闘について記述する。目次

1 概要

2 経緯

2.1 背景

2.2 反体制派による占領

2.3 ISILの攻撃

2.4 ISILの支配下

2.5 シリア民主軍による侵攻

2.6 ロジャヴァの支配


3 脚注

概要

ラッカはシリア北東部にあるラッカ県県庁所在地である。アレッポの東方約180km、ユーフラテス川左岸に位置する。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて商業都市として栄えたが、アッバース朝時代には,ビザンツ帝国への前線基地本部として機能した。現在は旧都市の外縁部が小さな商業中心地として機能し、四方への連絡道路の分岐点である[1]

ラッカはさまざまな勢力が入り乱れ、「内戦の縮図」ともいわれた。2013年にはヌスラ戦線と自由シリア軍に占領され、シリア政府が最初に喪失した県庁所在地となった。その後、ISILに占領され、2014年6月にカリフ制の樹立が宣言されると、しばしば「首都」と目されるようになった[2]

ラッカの重要性についてはさまざまな見解がある。ラッカの反体制活動家は、政府軍がアレッポホムスなどと比べてラッカを重視しておらず、反体制派にとっても軍事的重要性が薄く、革命を勢いづかせる象徴程度にしか考えていない者もいた[3]。ISILが占領してからは国立病院とスタジアムに本部が置かれ、「首都」とみなされてきた。そのためシリア民主軍がラッカを占領すると「ISIS掃討作戦が事実上終わった」「ISISはもはや実体のない概念となり果てた」という報道もあった[4]。ただし、ISIL自身が公式にラッカを首都と称したことはなく、モースルのほうが重要性が高く、マヤーディーン、アブ・カマルカーイムなどの都市もラッカと同等の機能を果たしていたと見る向きもある[5]
経緯
背景

2011年3月のアラブの春波及を受けシリア内戦が発生すると、ラッカは散発的な反体制デモと治安当局の弾圧の場となった[2]
反体制派による占領 ラッカにおける戦闘の進路、及び2013年10月現在の勢力図     政府軍の制御下     反体制派の制御下詳細は「ラッカの戦い (2013年3月)」を参照

2013年3月、ヌスラ戦線など複数の反体制派武装勢力と政府軍とのあいだでラッカ市を巡り戦闘が行われた[6]

2013年3月2日、ラッカ市郊外のマシュラブ、フルースィーヤ検問所周辺で、シリア政府軍共和国防衛隊・新政府系民兵と反体制派の間で激しい戦闘が行われた。この戦闘により、武装集団の一部がマシュラブ市を経由して北方からラッカ市内に侵入した[7]

3日夜から、イトファーイーヤ広場、ダウワール・ディッラ、出入国管理局施設周辺などで、政府軍と反体制派が交戦した。4日にはラッカがほぼ陥落したと報道され、インターネット上に反体制派によって市内の前大統領ハーフィズ・アル=アサド像が倒される映像がアップされた。シリア人権監視団によると反体制派は同市周辺に位置するスィバーヒーヤ検問所、マカッス検問所などすべての検問所、さらには保険局を制圧したという。バースィル通りや政治治安局支部近くでは引き続き政府軍と反体制派が交戦中で政府軍が掌握しているのは軍事情報局支部、バアス党支部などに留まる。さらにラッカ市北部のラッカ中央刑務所などに対して、政府軍が空爆を開始した[6]

5日、県知事公邸周辺で戦闘が行われ、反体制派によってラッカ県知事ハサン・ジャリーリー、バアス党ラッカ支部指導部書記長スライマーン・スライマーンらが捕らえられた[3]

6日には、総合情報部、県知事公邸を含むほとんどの政府関連施設が反体制武装集団に制圧され、軍事情報局周辺で激しい戦闘が行われ、体制派の捕虜が300人以上に上った[8]

ラッカが簡単に陥落したのは、シリア政府が(アレッポホムスなどと比べて)ラッカを重視していなかったと見る向きもあった。また、ラッカは軍事的重要性が薄いものの、革命を勢いづかせる象徴になると考えられていた[3]。シリア政府が最初に喪失(放棄)した県庁所在地となった[2]
ISILの攻撃

ラッカが反体制派の支配下にあった2013年12月7日、ヌスラ戦線の管理する検問所でISILサウジアラビア人戦闘員が殺害された。これによりISILとヌスラ戦線の対立が高まり、7日深夜から8日未明にかけて市内の検問所で戦闘が行われた[9]

12月の間にISILは、福祉施設や「ラッカ国境なき記者団」の拠点を襲撃したり[10][11]、ラッカ市内の国立病院に配備予定だった救急車両5台を強奪したり[12] 、反体制活動家の機関紙『タラア・ナー・ア・フッリーヤ』1000部以上などを焼却する[13]など、他の反体制派と対立を深めた。

ラッカ市では、ヌスラ戦線とシャーム自由人イスラム運動がラッカ県知事公邸を、ISILが県庁舎・市庁舎を本部として対峙していた。2014年1月5日、市内の複数地区でヌスラ戦線が反ISILデモを展開し、イスラム戦線(シャーム自由人イスラム運動など)とともにISIL本部があるラッカの県庁舎・市庁舎を包囲して無血開城を求めた。さらにISIL拠点のひとつを開放し、自由シリア軍兵士50人を解放した[14]。6日、ラッカ県各地でISILの撤退が相次ぎ、ラッカ県一帯の部族に強い影響力を持つフザイファ大隊がISILからヌスラ戦線に寝返った[15]

7日時点でISILはラッカ市の県・市庁舎一帯の300?400メートルの一帯でイスラム戦線などに包囲されていた[16]。8日には戦闘がフィルドゥース地区一帯に拡大し、国家治安局地区がISILに占領された。逆にISILが拠点としていた政治治安局はヌスラ戦線に制圧された[17]。10日、ISILはマシュラブ地区やウワイス・カルニー廟モスク(ヌスラ戦線本部)を襲撃、一時制圧した。その後、マシュラブ地区西側の検問所に再集結したという。フィルドゥース地区でもISILとヌスラ戦線との戦闘が拡大した。ISILはラッカ県への兵站路を確保し続けることで優位に立つようになった[18]

11日、ISILは市内の鉄道駅と併設されていた検問所を制圧した。また、戦闘で死亡したISIL戦闘員の遺体数十体がラッカ国立病院に搬送され、安置されたが、イスラム戦線やヌスラ戦線の戦闘員がザジュラ村に遺棄された[19]

13日までにISILは市の大部分を占領し[20]、イドハール交差点、電力会社、現代医学病院などで戦闘が行われたが、ヌスラ戦線など最後まで戦っていた反体制派が撤退したことによって14日にラッカを完全制圧した[21]


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