ラタキア
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ラタキア
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Latakia

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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度31分00秒 東経35度47分00秒 / 北緯35.51667度 東経35.78333度 / 35.51667; 35.78333
国 シリア
ラタキア県
郡ラタキア郡
政府
 ? governerZahed Hajj Mousa
人口(2002)
 ? 合計402,000人
市外局番41
ウェブサイトeLatakia

ラタキア(ラタキーヤ、ラージキーヤ、Latakia、Latakiyah、アラビア語: ????????‎、al-L?dhiq?ya、アル=ラーディキーヤ、ギリシア語: Λαοδικε?α、Laodicea、Laodikeia、Laodiceia、ラオディケイア、トルコ語: Lazkiye、ラテン語: Laodicea ad Mare)は、地中海に突き出した半島に位置するシリア(シリア・アラブ共和国)第一の港湾都市。ラタキーヤ県の県都でもある。人口はおよそ554,000人と推計されており、ダマスカスアレッポホムスに次ぐシリア第4位の都市。
歴史
古代のラオディケイア

古代ローマ時代の地理学者ストラボンは『地理誌』(16巻2章9節)[1]に、ラオディケイアを立派な都市で良港を擁し、豊かな土地に囲まれていると書いている。特にブドウがよく実り、アレクサンドリアで消費されるワインの第一の産地であるという。葡萄園はなだらかな山の斜面に広がり頂上までのほとんどを占め、さらに山を越えた東のアパメア付近にまで広がっていたとある。ラタキアの凱旋門

小さな半島と湾には古くから住居があった。フェニキア人はここにラミタ(Ramitha)という名の都市を置き、ギリシャ人にはレウケ・アクテ(Leuke Akte、「白い岬」)として知られていた。セレウコス朝を開いたセレウコス1世ニカトールはシリアからメソポタミアにかけてアンティオキアセレウキアなど数多くの大都市を築いたが、この半島の上の小都市も大規模に作り替え、母の名を取ってラオディケイアと名付けた[2]。他のラオディケイアと区別するため「海に臨むラオディキア」「シリアのラオディキア」とも呼ばれたラオディケイアは、セレウコス朝の四大都市(シリアのテトラポリス)の一つとなった。フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によれば(Bel. Jud. i. 21. § 11)、ヘロデ大王は水道を整備したとされ、大きな廃墟が残っている。ストラボンは、共和政ローマの末期に、プブリウス・コルネリウス・ドラベッラによってラオディケイアの街は大変な災難にあったと述べている[1]紀元前43年、ドラベッラはガイウス・カッシウス・ロンギヌスから逃れてラオディケイアに来たが、カッシウスの軍勢に攻められ街に籠城し、殺されるまでに街の大部分を破壊したという。

ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの時代(2世紀末-3世紀)の凱旋門が今もラタキアには残っている。また新約聖書の記述によれば、1世紀ごろにはラオディケイアには相当な規模のユダヤ人社会があったとみられる(Joseph. Ant. xiv. 10 § 20)。異端派(アポリナリオス主義)の司祭アポリナリウス(390年没)はラオディケイアの司祭であった。
中世のラタキア

東ローマ帝国統治下の494年555年の大地震で街は荒廃し往時の重要性を失い、638年アラブ人たちによるイスラム国家がラオディケイアを陥落させた。当時のシリアはギリシア系住民や正教徒が多く東ローマ帝国はこの地を固有の領土と見なし何度も軍を送った。東ローマは969年にラタキアを奪取したが、1084年セルジューク朝に奪われた。

1097年第1回十字軍はラタキアを陥落させアンティオキア公国の一部とした。東ローマは1098年1100年に取り返したが、以後は十字軍国家と東ローマの間を往復し、イタリア商人の寄港地や十字軍の補給港となっていた。1188年サラーフッディーンがムスリムの手にラタキアを取り戻し、1260年には十字軍国家トリポリ伯国が落としたものの1287年カラーウーンに奪われた。16世紀から第一次世界大戦までの間はオスマン帝国の一部となった。
オスマン帝国からフランス領へ1920年代の写真、ラタキアのアラウィー派の楽師たちがくつろいでいる

オスマン帝国時代、ラタキア周辺はイスラム教アラウィー派の多い地域となったが、ラタキアの街は多くのスンニ派住民やキリスト教徒住民が住んでいた。農村部では地主がスンニ派で農民がアラウィー派という状態であった。特殊な状態にあったドゥルーズ派同様、アラウィー派もスンニ派のオスマン帝国とは緊張関係にあった。またミッレト制(オスマン帝国の行政区分で、自治や独自の慣習を認められた各宗教ごとの共同体)による宗教共同体はアラウィー派などには適用されなかったが、アラウィー派は自治を比較的認められていた。

1920年大シリア地域(シリア、レバノン、パレスチナ)の王だったハーシム家ファイサルフランスにより追放されフランス委任統治領シリアが発足すると、1922年、シリアは4つの自治国(ダマスカス国、アレッポ国、エッドゥルーズ(ドゥルーズ派国(英語版))、アラウィー派国(英語版))の緩やかな連邦に再編された。アラウィー派国(Etat des Alaouites)はラタキアを中心とするシリアの海岸部全体に設定され、アラウィー派住民による自治が認められた。フランス領ラタキア国(Sanjak of Latakia)の旗

1930年9月22日から1936年までラタキアは、国際連盟委任統治制度の下でフランスが統治する名目上の独立国・ラタキア国(Sanjak of Latakia、アラウィー派国から改名)の首都となっていた。この国は地中海岸から内陸の山脈までの範囲を管轄していた。ラタキア国の切手は、フランスが作ったシリア国(ダマスカスとアレッポが1924年末合併)の切手の上から「LATTAQUIE」(ラタキア)の文字とアラビア文字の国名を刷ったものだった。フランス統治下の地域では、分割統治に反対し独立を求める民族主義運動が起こった。これに対して、フランスは自国に有利な条件でシリアを独立させようとし、シリア側と条約締結交渉を行った。

1936年のフランス・シリア独立条約(英語版)でアラウィー派国家とドゥルーズ派国家はシリアに合流した。しかしナチス・ドイツが中東で勢力を伸ばすおそれからシリアを手放すことに対する反対意見がフランスで起こり、結局フランス議会でこの条約は批准されなかった。また条約に反しアンドレッタ県(アンタキヤ周辺、現在のトルコ・ハタイ県)をトルコに帰属させることとなり、シリアでは暴動が起きた。1939年にはフランスの総督は条約を延期しアラウィー派国家とドゥルーズ派国家を再度設定した。シリアにイギリス軍が侵入してヴィシー政権を追放した後の1943年、シリア独立に向けて総選挙が行われ、アラウィー派国家とドゥルーズ派国家はシリアに再統合された。シリアは1946年4月17日に独立し、ラタキアはラタキア県の県都となった。
シリア独立後


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