ラスプーチン
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グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン
Григорий Ефимович Распутин
1916年
生誕1859年1月21日
ロシア帝国・トボリスク県ポクロフスコエ村(英語版)
死没 (1916-12-17) 1916年12月17日(57歳没)
ロシア帝国ペトログラード
職業農民
自称祈祷僧
配偶者プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナ
子供マリア・ラスプーチナ
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ラスプーチンと妻、娘(1911)

グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(: Григо?рий Ефи?мович Распу?тин、ラテン文字転写:Grigorii Efimovich Rasputin、1859年1月21日ユリウス暦1月9日[1]) - 1916年12月30日ユリウス暦12月17日[2]))は、帝政ロシア末期の祈祷僧シベリア・トボリスク県ポクロフスコエ村(英語版)出身。

奇怪な逸話に彩られた生涯、怪異な容貌から怪僧・怪物などと形容される。ロシア帝国崩壊の一因をつくり、歴史的な人物評は極めて低い反面、その特異なキャラクターから映画や小説など大衆向けフィクションの悪役として非常に人気が高く、彼を題材にした多くの通俗小説や映画が製作されている。
生涯
生い立ちラスプーチンと子供たち

1859年1月9日、シベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンとその妻アンナ・パルシュコヴァの第5子として生まれる。翌10日に洗礼を受け、ニュッサのグレゴリオスから名前を授けられ、「グリゴリー」と名付けられた[3]

ラスプーチンは学校に通わなかったため読み書きが出来なかった(1897年のロシア政府の国勢調査によると、村人の大半が同様に読み書きが出来なかった)[4]。素行不良で粗暴な若者へ育ったグレゴリー青年はロシア正教会古儀式派スコプツィ派の教義[5]に傾倒、指導者としての頭角を表す。幼少期のラスプーチンについて、娘のマリア・ラスプーチナが記録を残しているが、彼女の記録は信頼性が低いと見なされている[6]
修行僧として

1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚するが、1892年、唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した[7]。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。出奔後はヴェルコチュヤ(英語版)の修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったミハイル・ポリカロポフ(イタリア語版)に強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた[8][9][10]左からラスプーチン、ドルガニョフ、ビストロフ(1906年)

1903年に再び村を離れ数か月間巡礼の旅に出かけキエフ・ペチェールシク大修道院を巡り、カザンでは主教や上流階級の人々の注目を集める存在となった[11][12][13]。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた[14]

その後、ラスプーチンはクロンシュタットのイオアンと共に教会建設の寄付金を集めるためにサンクトペテルブルクを訪れ、サンクトペテルブルク神学校(英語版)のセルギウス1世(英語版)に寄付を求めた[15]。サンクトペテルブルク滞在中のラスプーチンはアレクサンドル・ネフスキー大修道院に宿泊していたが、彼の心理的洞察力に感銘を受けたワシーリー・ビストロフ(英語版)に請われ、彼の宿舎に移り住む。

ロマノフ家の語学教師だったピエール・ジリヤール(英語版)によると、ラスプーチンがサンクトペテルブルクに来たのは1905年とされるが、歴史家のヘレン・ラパポート(英語版)は1903年の四旬節の頃と主張している他、1904年という説もある[16][17][18]
皇帝夫妻の友人アレクサンドラ、アレクセイ、四皇女(オリガタチアナマリアアナスタシア)とラスプーチン(1908年)

サンクトペテルブルクを出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃アナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになり[19]1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后に謁見した[20]。当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していた[21][22]

1906年10月、ニコライ2世の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たり、1907年4月にはエカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善した[23][24]。ギラードと歴史家エレーヌ・カレール=ダンコース、ジャーナリストのディアムルド・ジェフリーズは、ラスプーチンの治療法は1899年以降流通したアスピリンの投与による鎮痛治療だったと推測している[25][26][27][28]

血友病を治癒したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた[29]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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