ラスタファリ運動
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赤、黄、緑とユダのライオンはラスタファリ運動のシンボルである。

ラスタファリ運動(ラスタファリうんどう、: Rastafari movement)またはラスタファリアニズム (Rastafarianism) は、1930年代ジャマイカ労働者階級農民を中心にして発生した宗教的思想運動である。

ラスタファリ運動の実践者は「ラスタファリアン」、または「ラスタピープル」、「ラスタパーソン」、もしくは単に「ラスタ」と呼ぶ。ラスタファリアンはこの宗教運動のことを「主義」(イズム、-ism) ではなく「人生観」(way of life) と考えるため、ラスタファリ運動 (Rastafari movement) と表現される。
概要

ラスタファリ運動は聖書を聖典としてはいるが、特定の教祖や開祖は居らず、教義も成文化されていない。それゆえ宗教ではなく、思想運動であるとされる[1]。基本的にはアフリカ回帰運動の要素を持ち、エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世ジャーの化身、もしくはそれ自身だと解釈する。名称はハイレ・セラシエの即位以前の名前ラス・タファリ・マコンネン(アムハラ語で『タファリ侯マコンネン』の意)に由来する。ラスタファリ運動には一握りのエリートによって支配され、社会的に抑圧されたジャマイカ市民による抵抗運動としてのメシア主義と、現実逃避的な千年王国思想の両面が垣間見える[2]

主義としてはアフリカ回帰主義(またはアフリカ中心主義)を奨励した。その指向は、ラスタの生活様式全般、例えば菜食主義ドレッドロックスガンジャを聖なるものとして見ることなどに現れている。1970年代にレゲエ音楽や、とりわけジャマイカ生まれのシンガーソングライター、ボブ・マーリーによって全世界に波及する。全世界に100万人のラスタファリ運動の実践者がいると言われる。

なお、ジャマイカの多数派宗教はキリスト教(プロテスタントバプティスト派)であって、ラスタファリズムを信仰するのは全国民の5?10%前後である。
歴史
エチオピアニズム

18世紀にアメリカに誕生したバプテスト教会の黒人説教師たちは、聖書にある「エジプトから王が到来し、エチオピアは、神に向かって手を差し伸べる」(詩篇 68:31)など、黒人と聖書の結びつきを訴え、エチオピアを世界に離散した黒人の母国のように語った。この運動は伝道活動へと発展し、新世界の黒人の間に広まった[3]

19世紀の欧米に聖書から有色人種を排除する目的から、科学者の間で聖書に登場する人種を証明する論争が起こった。研究の過程で古代エジプト人と古代エチオピア人は黒人であり、同一の人種であるという説が浮上した。これらの説はアメリカ植民地協会のエドワード・ウィルモット・ブライデン(英語版)がさきがけとなって、エチオピアニズムとして体系化された。黒人の祖先が人類文明の起源を作ったという考えは、世界中の黒人の尊厳に影響を与えた[3]。新世界の黒人の伝統では「エチオピア」とは北アフリカを含む全アフリカを指す言葉となっている[3]
マーカス・ガーベイの「予言」マーカス・ガーベイ

1910年代、ジャマイカ生まれのマーカス・ガーベイはアメリカ合衆国に渡り世界黒人開発協会アフリカ社会連合(UNIA-ACL)を組織しパン・アフリカ主義を提唱した。当時、カリブの黒人社会に根強く残っていたエチオピアニズムを拡大解釈し、黒人に対してアフリカに帰ることを奨励した。ガーベイの主張はアメリカのみならず、カリブや南アメリカなどの多くの黒人の支持を得た。

カリスマ的な演説活動をするマーカス・ガーベイは、1927年に「アフリカを見よ。黒人の王が戴冠する時、解放の日は近い」という声明を発表する(この声明はラスタファリズムにおいては「預言」ととらえている)。これがラスタファリ運動出現へとつながっていく。
ハイレ・セラシエ即位TIME誌1930年11月3日号の表紙を飾るハイレ・セラシエ1世

1930年11月、エチオピアの皇帝にハイレ・セラシエ1世が即位する。マーカス・ガーベイの信奉者にとっては、まさに預言どおりの奇跡が起こったのだ。この「神の啓示」をきっかけにして、ジャマイカの首都、キングストンでレナード・ハウエルを中心にガーベイ主義の布教がはじめられ、初期ラスタファリ運動が始まった。イギリスによる植民地支配と度重なる自然災害で、多くの黒人は疲弊していたこともあり、救いを求める下層階級の人々を中心に信者が増えた。1934年、運動に危機を感じた政府当局は弾圧を始める。この弾圧を逃れたラスタファリアンは山の奥地に逃げ込み、そこでコミューンを展開する。このコミューンでの共同生活によって、ラスタファリアン達はドレッドロックスや大麻による儀式などラスタファリズムの基本スタイルと信仰を確立した。

政府当局によるラスタファリアンの弾圧は断続的に続いたが、一方で、一般市民にも「ラスタファリズム」の存在が知られるようになる。1961年、ラスタファリアンであるラス・ブラウンが議員選挙に立候補し、政界に進出する。ここで初めて黒人知識層がラスタファリ運動の「主義」の部分に注目するようになる。1962年、ジャマイカは英国から独立。しかし社会情勢は不安定のままで、ラスタファリアンのアフリカ回帰の渇望は募るばかりだった。
セラシエ来訪とレゲエ音楽演奏するボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ

1966年、ハイレ・セラシエ1世がジャマイカに来訪。ラスタファリアン達は熱狂的にセラシエを歓迎した。ここでセラシエは、「ジャマイカ社会を解放するまではエチオピアへの移住を控えるように」という内容の私信を主なラスタ指導者に送った。これによって、「ザイオン(アフリカ)回帰よりバビロン(ジャマイカ)解放」という新しい考えが定着し、どこか世捨て人風で厭世的なラスタ達を、社会へ参加させるという思わぬ効果も現れた。

当時のジャマイカの音楽シーンに目を移すと、1960年代半ばまではジャズR&Bの影響を多大に受けたスカロックステディが流行していたが、セラシエ来訪を契機にラスタの思想やメッセージを伝える手段としての音楽、すなわちレゲエへと流行が変遷していった。ラスタのミュージシャンやシンガーが、さまざまなラスタのメッセージを音楽に乗せ、国民の多数に支持されるようになるのだ。特にボブ・マーリーは国際的な名声を得るに至り、ラスタファリアンからも支持が篤かったため、1975年にハイレ・セラシエ1世が死亡するという悲報を受けても、ラスタファリ運動のモチベーションは決して下がることはなかった。むしろ、"Jah Live"(ジャーは生きている)と歌っていたのだ。少なくとも、1981年にマーリーが死亡するまでは、ラスタファリ運動は活発であった。
ボブの死から今日まで

ボブ・マーリーの死後ジャマイカにおけるラスタファリ運動は一時的に停滞するが、ラスタファリアンのレゲエ・シンガー、ガーネット・シルクの活躍と突然の死や、ブジュ・バントン、ケイプルトンといった人気レゲエ・ディージェイがラスタファリアンになったことなどにより、1993年頃から若年層を中心に再び活発化した。ラスタファリアンによると、彼らはセラシエが復活し、再臨することを「信じている」のではなく、「知っている」集団なのである。

一方、ボブ・マーリーの影響でラスタファリ信仰とレゲエが結び付けられていただけであり、真のラスタファリアンはレゲエ・ミュージックを宗教歌として受け入れているわけではないとし、ラスタファリ信仰の指導層はラスタファリ信仰とレゲエ文化を切り離す試みに力を注いでいる[4]
ナイヤビンギ

ナイヤビンギ (Nyahbinghi) とは、ラスタファリアンの宗教的な集会、またはその集会で演奏される音楽のこと。ナヤビンギ、あるいは単にビンギとも言う。ナイヤビンギでは、円陣を組んでガンジャを吸う、太鼓を叩いて歌う(チャント/Chant)、話し合うなどする(リーズニング/Reasoning)。ラスタファリアン同士の交流の場。
ナイヤビンギ音楽

音楽としてのナイヤビンギは、ケテ・ドラム(Kette Drum/Akette Drum/Kettle Drumなど綴りは一定しない)と呼ばれる複数の太鼓によるアンサンブルにチャントと呼ばれる賛美歌を乗せたものである。ケテドラムには低音部を担当するベース(Bass)、中音部を担当するフンデ(Funde)、高音部を担当するリピーター(Repeater)という3種類がある。
ナイヤビンギ音楽の主な作品

Count Ossie & The Mystic Revelation Of Rastafari "Grounation" (1973年)

Ras Micheal & the sons of Negas"Rastafari" (1975年)

ラスタ・カラー

黒、赤、緑、金色(黄色)の4色の組み合わせはラスタ・カラーと呼ばれ、ラスタファリアンに好んで使用される。これはジャマイカ独立のために戦った黒人戦士の黒、戦いで流れた血の赤、ジャマイカの自然の緑、ジャマイカの国旗の金色(太陽の色)を表す。ファッションや日用品など、ラスタファリアン達のあらゆる生活の場にこの色の組み合わせが頻繁に用いられる。


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