この項目では、アルゼンチンのサッカークラブについて説明しています。
スペインのサッカークラブについては「ラシン・サンタンデール」をご覧ください。
ウルグアイのサッカークラブについては「ラシン・クラブ・デ・モンテビデオ」をご覧ください。
フランスの総合スポーツクラブについては「ラシン・クラブ・ド・フランス」をご覧ください。
ラシン
原語表記Racing Club
愛称La Academia (学院),
El Primer Grande
(最初の偉大なチーム)
クラブカラー水色・白
創設年1903年
所属リーグアルゼンチンリーグ
所属ディビジョンプリメーラ・ディビシオン
ホームタウンアベジャネーダ
ホームスタジアム
プレシデンテ・ペロン
収容人数55,000
代表者 ビクトル・ブランコ
ホームカラーアウェイカラーサードカラー
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ
ラシン・クラブ(スペイン語: Racing Club)、またはラシン・クラブ・デ・アベジャネーダ(Racing Club de Avellaneda)は、アルゼンチンの中東部、ブエノスアイレス州の都市アベジャネーダを本拠地とするスポーツクラブ。バスケットボール、ボクシング、武道、ローラースケート、テニス、バレーボールなどの競技チームも所有しているが、サッカークラブが有名である。サッカークラブはボカ・ジュニアーズ、CAリーベル・プレート、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ、CAインデペンディエンテとともに、伝統的にアルゼンチンのビッグ5に数えられる。
アルゼンチン・フットボールの黎明期、アルゼンチン国へのフットボール普及の中心的役割を果たした英国系クラブのアルムニACが消滅した後に、(クリオーリョ中心のメンバーであった)ラシン・クラブは、アマチュア・リーグ時代の1913年から1919年までに7連覇(アルゼンチン・リーグの最長連覇記録)を遂げ、アマチュア時代に合計9度の優勝を果たした。そのため当時アルゼンチンにおけるアルムニの後継的存在のクラブとなり、その優れた成績からLa Academia(ラ・アカデミア:学院)という敬意を表された愛称で呼ばれるようになった。そして、この愛称は現在も引き続き用いられクラブとサポーターの誇りとアイデンティティとなっている[1]。プロリーグ化後に8度優勝しており、計17度のリーグ優勝している。国際舞台においては1967年にコパ・リベルタドーレスとインターコンチネンタルカップを、1988年に第1回スーペルコパ・スダメリカーナとスーペルコパ・インテラメリカーナを制している。アルゼンチンのクラブとしてはCAインデペンディエンテに次いで2番目に南米制覇を果たし、アルゼンチンで初めて世界制覇を果たした。アマチュア時代には、アルゼンチンサッカー協会 (AFA) とウルグアイサッカー協会 (AUF) が共同で組織したコパ・アルダオやコパ・デ・オノール・クセニエールでも優勝している[2]。
歴史
創設期青色と白色のユニフォームを着用していた1906年のチーム
1901年5月12日、国立中央カレッジの学生グループがFCバラカス・アル・スド (Football Club Barracas al Sud) を設立し、ペドロ・ウェルネルが初代会長に就任した。しかし、FCバラカス・アル・スド設立、1周年を前に、ユニフォームの色に関して内部対立が起こった。会長側メンバーは黄色と黒の縦縞を希望し、残りの多くのメンバーは赤色を希望した。そして多数派であった反会長派である赤色支持のメンバーが離脱をし、赤色のユニフォームを着用するコロラドス・ウニードス (Colorados Unidos) が設立された。しかし、この分裂状態が長く続くことはなかった。1903年3月25日、ブエノスアイレスのアシエンダ市場で会合が行われて、両クラブの分裂解消が決定され統合することとなった。この際に出席者のひとりエルマン・ビダジャックがフランスのスポーツ雑誌を手にしていて、そこにはフランスのフットボール・クラブ、ラシン・パリが1902年に優勝した記事があった。ラシン・パリは当時、フランスでかなりの強豪チームであった。彼がこれを仲間達に見せると、喝采を持って受け入れられ、そこから、チーム名をラシン・クラブ・デ・アベジャネーダに改名することが決定された[3][4]。