ラシュヴァ渓谷の民族浄化
ボシュニャク人の難民。1993年、ラシュヴァ渓谷地域のトラヴニクにて
場所 ボスニア・ヘルツェゴビナ、ラシュヴァ渓谷
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
サラエヴォ包囲
クロアチア・ボスニア戦争
フォチャの虐殺
ヴィシェグラードの虐殺
プリイェドルの虐殺
ラシュヴァ渓谷の民族浄化
アフミチの虐殺
'93ネレトヴァ作戦
バニャ・ルカ事変
第一次マルカレ虐殺
ベーレバンク作戦
アマンダ作戦
トゥズラの虐殺
ムルコニチ・グラード事変
スレブレニツァの虐殺
'95夏作戦
虎作戦
嵐作戦
第二次マルカレ虐殺
NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆
ミストラル作戦
サナ作戦
ラシュヴァ渓谷の民族浄化(ボスニア語・クロアチア語・セルビア語:Etni?ko ?i??enje u La?vanskoj dolini / Етничко чиш?е?е у Лашванско? долини、英語:La?va Valley ethnic cleansing)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1992年から1993年にかけて、ボスニア・ヘルツェゴビナのラシュヴァ渓谷(英語版)地域においてボシュニャク人(ムスリム人)の民間人に対して行われた一連の戦争犯罪の総称であり、これらはヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の政治的・軍事的指導者らによって指揮されたものである。1991年11月にクロアチア人民族主義者が設定した目標を具現化するために1992年5月から翌1993年3月にかけて準備され、同年4月に相次いで実行に移された[1]。ラシュヴァ渓谷のボシュニャク人は政治的・民族的・宗教的背景に基づいて迫害の対象とされ[2]、地域一帯での広範な攻撃の中で計画的にその対象とされ[3]、大量虐殺、強姦、強制収容所への収容、ならびに文化遺産および個人資産の破壊が行われた。また、とくにヴィテズ(英語版)、ブソヴァチャ(英語版)、ノヴィ・トラヴニク(英語版)、キセリャクの各自治体の領域内を中心に、反ボシュニャクのプロパガンダが行われた。中央ボスニアの地図。地図中央付近、サラエヴォの北西一帯がラシュヴァ渓谷と呼ばれる
旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(The International Criminal Tribunal for the Former Yugoslavia; ICTY)は、ダリオ・コルディッチ(英語版)をはじめとするクロアチア人の政治的・軍事的指導者ならびに兵士らに対する多くの判決で、これらの犯罪が人道に対する罪に該当するものと認定している[2]。この期間に行われたクロアチア防衛評議会による攻撃にかかわる証拠に基づき、コルディッチおよびチェルケズ事件(Kordi? and ?erkez case)の判決においてICTYは、クロアチア人の指導者らはラシュヴァ渓谷からボシュニャク人を民族的に一掃するという意図あるいは計画を共有していたと認定した。地方の政治指導者であったダリオ・コルディッチは、こうした計画の立案者であり扇動者であるとされた[2]。さらに、隣接するクロアチアの軍であるクロアチア陸軍がこの作戦に関与していたと結論づけ、一連の戦争犯罪をクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナによる国際紛争であるとした[4]。
サラエヴォを拠点とするサラエヴォ研究・文献情報活動センター(英語版)によると、ラシュヴァ渓谷地域に住む2000人程度のボシュニャク人がこの期間に死亡もしくは行方不明となった[5]。 ユーゴスラビア紛争の中で、ボスニア・ヘルツェゴビナに住むクロアチア人はクロアチアと目的を共有していた[1]。クロアチアの政権政党であったクロアチア民主同盟はボスニア・ヘルツェゴビナに党支部を設立し、統制していた。1991年後半には、より過激な立場をとるマテ・ボバン、ダリオ・コルディッチ
背景
ICTYは民族浄化作戦の背景として、1991年11月12日の会談の中でマテ・ボバンとダリオ・コルディッチにより署名された「ボスニア・ヘルツェゴビナに住むクロアチア人は最終的に、我らの永遠の願いである単一のクロアチア人国家を実現するための、確固とした実効性ある指針を抱かねばならない」とする合意を挙げた。1992年4月10日、マテ・ボバンは、その前日に結成されたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国領土防衛軍(TORBiH)はクロアチア人共同体の領域的においては違法であると宣言した。5月11日、ティホミル・ブラシュキッチ(英語版)は、郷土防衛軍はキセリャク自治体の域内において違法であると宣言した[1]。
差別ラシュヴァ渓谷中部の地図。アフミチはヴィテズとブソヴァチャの中間に位置する。
1992年の間、ヴィテズ(英語版)、ブソヴァチャ(英語版)およびキセリャクのボシュニャク人の市民や指導者らは日常的に差別的な扱いの対象となった。ボシュニャク人の生活条件は極度に悪化し、多くの人々がこれらの地域を去り、ボシュニャク人が多数派を占める地域へ移っていった。それでもこの地に留まった人々は、次第に敵意を強めてくるクロアチア人の政治的・軍事的機構による差別を甘受するより他なかった。モスクやボシュニャク人の家屋の破壊、ボシュニャク人市民の殺害、彼らに対する略奪はこの頃に始まった[1][8]。