ラザヴィー・ホラーサーン州
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ラザヴィー・ホラーサーン州
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位置

統計
州都:
 • 測地系:マシュハド
 • 北緯36度17分53秒 東経59度36分21秒 / 北緯36.2980度 東経59.6057度 / 36.2980; 59.6057
面積:144,681 km²
人口(2005年)
 • 密度:5,593,079人
 • 36.0人/km²
シャフレスターン数19
タイムゾーン:UTC+3:30
主な言語:ペルシア語
クルド語
トルクメン語
ISO 3166-2:IR:IR-30
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州内のen:Mount Binalud。

ラザヴィー・ホラーサーン州(ペルシア語: ????? ?????? ????‎, ラテン文字転写: Ost?n-e Khor?s?n-e Ra?av?)は、イラン・イスラム共和国州(オスターン)のひとつ。同国の北東部に位置し、州都はマシュハドである。旧ホラーサーン州分割を含む2004年の第一級地方行政区画の変更に伴って成立した(#歴史)。州の名称は、イランで人気のある8, 9世紀の宗教指導者、エマーム・レザーに由来する(#名称)。

ラザヴィー・ホラーサーン州は、管下にマシュハドのほか、グーチャーン、ダルギャズ、チェナーラーン、サラフス、ファリーマーン、トルバテ・ジャーム、ターイバード、フェルドウス、ガーイェン、ハーフ、ラシュトハール、カーシュマル、バルダスキャン、ネイシャーブール、サブゼヴァール、ゴナーバード、キャラート、ハリーラーバードの諸郡を擁する。
目次

1 名称

2 歴史

3 今日のホラーサーン・ラザヴィー州

3.1 観光地

3.2 高等教育機関


4 出身者

5 関連項目

6 外部リンク

名称

「ラザヴィー・ホラーサーン州」を、イランの公用語であるペルシア語による正式名称 Ost?n-e Khor?s?n-e Ra?av? に基づいてカタカナにすると「オスターネ・ホラーサーネ・ラザヴィー」になり、この州を「ホラーサーネ・ラザヴィー州」「ホラーサーン・ラザヴィー州」と呼ぶ場合もある。なお「ラザヴィー」とはアラビア語で「リダーの」という意味であり、州都マシュハドに聖廟のあるシーア派8代イマーム・アリー・アッ=リダー(エマーム・レザー)に因んだ名である。
歴史

ホラーサーンは長い歴史を通じ、幾多の王朝が支配し、あるいは興り亡びた土地であり、アラブテュルクモンゴルトゥルクマーンアフガーンなどさまざまな人々が到来し、歴史に変化を与えてきた。

イラン古代の地理学者はイラン(「イーラーン・シャフル」:イラン世界)を8地域に区分したが、そのうち最大で最も繁栄していた地域がホラーサーンである。アルサケス朝は長いあいだホラーサーンのメルヴ近郊を基盤とした。

サーサーン朝期には国土はホラーサーンを含めて4つの地域に分割され、スパーフベド(将軍)と呼ばれる役職の人物がそれぞれの地域を治めた。619年西突厥統葉護可汗サーサーン朝のDatoyan王子の守るトゥースに攻め込んだ第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)の戦場となった。西突厥の帰路を襲ったバグラトゥニー朝(英語版)Persian Armeniaの王子Smbat IV Bagratuniによってサーサーン朝が勝利したが、ビザンチン・サーサーン戦争 (602年 - 628年)中のサーサーン朝の背後を突いて東ローマ帝国を支援する役目は果たした。

ホラーサーンはイスラーム征服後、ニーシャープールメルヴヘラートバルフの各都市を中心とする四地域に分割される。651年、アラブ・イスラーム勢力がホラーサーンに侵入し、以後820年までアッバース朝の支配下にあり、896年イラン系ターヒル朝900年サーマーン朝が続いた。

ガズナ朝スルターン・マフムード994年、ホラーサーンを征服、さらに1037年にはセルジューク朝の初代スルタントゥグリル・ベグがニーシャーブールを征服している。

その後、ホラーサーンをめぐってセルジューク朝とガズナ朝の対立が続き、最終的にはガズナ朝がスルターン・サンジャルを破った。しかし1157年にはホラズム・シャー朝の支配下に入り、モンゴル帝国の侵入を受けイルハン朝の領域となった。

14世紀に入るとサブゼヴァール(英語版)でサルバダール運動(英語版)(英語: Sarbedaran movement)が始まり独立の旗が掲げられた。1368年ティームールがホラーサーンを手に入れ、ヘラートをその首都とした。

1507年、ホラーサーンはウズベク族に征服された。1747年アフシャール朝ナーディル・シャー没後はアフガーンの勢力圏となっている。

ガージャール朝の時代にはイギリスイギリス東インド会社の保護のためにアフガーンを支援し、ヘラートはイランから分割された。ナーセロッディーン・シャーはヘラート奪還を目指したが果たせなかった。最終的に1903年パリ条約[要曖昧さ回避]によってイランはヘラートを含む今日のアフガニスタン領域への領有権主張を取り下げることになる。こうしてホラーサーンは人口稠密な東部地域がイギリス保護下に入り、残余の西部地域がイラン領として残ったのである。

ホラーサーン州はイラン最大の州であったが、2004年9月29日に北ホラーサーン、南ホラーサーン、ホラーサーン・ラザヴィーの三州に分割された(2004年5月18日国会通過、同29日護憲評議会通過)。
今日のホラーサーン・ラザヴィー州

ホラーサーン地域にはペルシア、ホラーサーニー・テュルク、トゥルクマーン、クルド、アラブなどのエスニック・グループが住む。また近年はアフガン難民が流入し、かなり大きなコミュニティを作っている。
観光地 州都マシュハドのモスク。

州内には泉、小さな湖、洞窟、自然公園、自然保護区、散策地など多くの自然を活用した観光地がある。

これに加えて、ホラーサーンは数多くの宗教建築、巡礼地が散在しており、イマーム・レザー廟やゴハルシャード・モスクなどが代表的で、ほかにも多くの墓廟、イマーム・ザーデがある。

イラン文化遺産協会にはホラーサーン3州全体で1179ヵ所が登録されている。ホラーサーン・ラザヴィー州の主な名所は以下の通り。

トゥース(ペルシア詩の巨人フェルドウスィーが葬られている地)

ネイシャーブールアッタールウマル・ハイヤーム、キャマーロッモルクらが葬られた地)


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