ラグビーユニオンの歴史
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1852年、フランスバス=ノルマンディー地域圏で行われたラ・スール(La soule)(英語版)におけるスクラミッジ(scrummage)。

ラグビーユニオンの歴史(ラグビーユニオンのれきし)は、19世紀よりずっと以前の様々なフットボール競技から続いているが、19世紀の中頃までは競技規則の策定および法典化はされなかった。後にラグビーユニオンの名で知られるようになるこのフットボールのコード(法典)は、1845年の最初の明文化された規則、1863年のブラックヒース・クラブフットボール協会離脱の決定、1871年のラグビーフットボール連合(ラグビー・フットボール・ユニオン、RFU)の結成、という3つの出来事に端を発する。このコードは最初は単純に「ラグビーフットボール」として知られていた。1895年に、選手への支払い問題を一因として、ラグビー界が分裂した。これはラグビーリーグという別のコードの形成につながり、元のラグビーコードと区別するために「ラグビーユニオン」(ユニオン式ラグビーという意味)という名称が使われた。その歴史上ほとんどの時代において、ラグビーユニオンは厳格なアマチュア主義を取るフットボールコードであり、このスポーツの管理者らはプロフェッショナルと見なした選手に対して頻繁に追放処分や制限を課した。ラグビーユニオンが「開かれた」競技と宣言されたのは1995年のことで、コードの統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(IRFB、現在のワールドラグビー)によってプロフェッショナリズムが認められた。

本項では組織名の「Union」(ユニオン)の訳語として「連合」を使用する。
ラグビーユニオンの先行競技「中世フットボール」も参照カルチョ・フィオレンティノを描いた版画(1688年)

ラグビーフットボールラグビー校で法典化されたものの、ラグビーをプレーする多くの国々にはラグビーと似たフットボール競技が前から存在した。

ラグビーと似た様々な形態の伝統フットボールはヨーロッパやその外側に至るところでプレーされてきた。これらの多くには、ボールを手で扱うこと、スクラミッジ[1]の形成が含まれた。例えば、ニュージーランドのキ・オ・ラヒ(英語版)、オーストラリアのマーングルーク(英語版)、日本の蹴鞠、ジョージアのレロ・ブルティ(英語版)、スコッティッシュボーダーズのジェダート・バ(英語版)とコーンウォールのコーニッシュ・ハーリング(英語版)、中央イタリアのカルチョ・フィオレンティノ、ウェールズ南部のクナパン(英語版)、イースト・アングリアのキャンプボール(英語版)、アイルランドのケイド(英語版)(ゲーリックフットボールの先祖)などである。

イングランドにおいてほぼ確実にフットボールであったゲームの最初の詳細な記述は、およそ1174?1183年にウィリアム・フィッツスティーヴン(英語版)によって残されている。フィッツスティーヴンは、告解の火曜日の年中行事中のロンドンの若者の活動を記述した。

昼食をすませると、ロンドンのすべての若者は、ball game(球技)に参加するためにfields(フィールド、試合場)へと出かけていった。それぞれの学校の生徒は自分達のボールを持っていた; 各都市の組合の労働者もまた自分達のボールを持って来ていた。年配の市民、父親達、裕福な市民は、彼らの息子達が競いあうのを見るために、そうして若かりし頃の自分たちを思い重ねるために、馬に乗ってやってきていた。[2]

フットボール競技、特に最も乱暴で破壊的な形態のフットボールを禁止する幾多の試みが行われてきた。これは、特に中世と近世(英語版)のイングランドやその他のヨーロッパ地域で当て嵌まった。1324年から1667年の間、イングランドだけでも、30以上の国家法と地方法によってフットボールは禁止された。このような法律を繰り返し布告する必要があったことは、人気のある競技を禁止することがいかに困難であったかを証明している。イングランド王エドワード2世は、ロンドンにおけるフットボールの手に負えなさに悩まされ、1314年4月13日にフットボールを禁止する声明を発表した。

「この都市においてやかましい音の原因となっている大きなボールを追い掛け回す行為は神が禁じる邪悪を生じることから、我々は、国王の代理として、今後そのような競技をこの都市で禁止することを命ずる。さもなくば禁固刑」。

1531年、トーマス・エリオット(英語版)はイングランドの「フットボール(footeballe)はけだもののような激しさと過激な暴力以外のなにものでもない」と書いた。

ボールを手にもって運ぶプレーを含むフットボール競技は、ウィリアム・ウェブ・エリスがこういったプレーを発明したと主張されている時代に至るまで、世紀を超えてプレーされ続けた。早ければ1440年にも記録され[3]、19世紀まで生き残っていた一つの形態が、キャンピング(Camping)、キャンパン(Campan)、キャンプボール(Camp-ball)、キャンピオン(Campyon)などと様々に呼ばれていたイースト・アングリアの競技である。これは、前進を継続するためにボールを手で持って運ぶこと、ボールを選手から選手にトスすることに明白に基づいていた。1823年(皮肉にもラグビーの「発明」の年である)にこの競技について書いた観察者によれば、

「それぞれの部隊(party)は、10または15ヤード離れた2つのゴールを有する。部隊は、1サイドが10または15人で、横に隊列を組んで、自分達のゴールと対戦相手との間の中央に約10ヤードの距離を取って互いに向い合う。公平な観客がクリケットボールの大きさのボールを向かい合った選手らの中間で投げ上げ、そして脱出する。落下してくるボールを掴み取るために選手が殺到する。最初にボールを捕まえた選手が自陣(home)へ疾走し、仲間の助けを受けながら、対戦相手の間を前進する。もし捕まえられる、というよりは捕えられる危険があるならば、ボールを保持したまま捕まるとsnotchを失うので、あまり包囲されておらず、より自由で、より元気のある仲間へとボールを投げる(決してボールを手渡してはならない)。もしその過程でボールを狙う相手や注意深い対戦相手にに阻まれたり押し退けられたりしなければ、ボールは捕球され、そして同じように自陣の方へ急ぎ、同じように追い掛けられ、困らせられ、助けを受ける。どうにかして、ゴール内にボールを運ぶあるいは投げ入れると、notchまたはsnotchを獲得する。Snotchを失ったり得たりすると、はじめから再開される。」[4]
19世紀ラグビー校「この碑は、1823年当時のフットボールのルールをみごとに無視し、初めてボールを腕にかかえて走り出してラグビーゲーム独自の特徴をつくり出したウィリアム・ウェブ・エリスの功績を記念する。[5]
初期の歴史「ラグビーフットボール」も参照.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースにLaws of Football played at Rugby School (1845)の原文があります。

フットボールをプレーすることはイングランドにおいて長い伝統があり、ラグビー校では1845年に3人の少年が初の明文化された規則を発表する前の200年間にわたって幾通りものフットボールがおそらくプレーされてきていた。規則は教師ではなく常に生徒によって決定され、新入生が入るたびに頻繁に修正された。ボールを持ったまま運ぶあるいは走る行為の正当性といった規則の変更は、試合の開始直前に合意がなされた。したがって、ウィリアム・ウェッブ・エリスの在学時(1816年?1825年)にはフットボールの正式な規則は存在せず、1823年に「当時のフットボールのルールをみごとに無視し、初めてボールを腕にかかえて走り出し」た少年の物語は真偽が疑わしい。この物語はウェブ・エリス死去の4年後の1876年に初めて登場し、地元の古物収集家でラグビー校卒業生マシュー・ブロクサム(英語版)をゆえんとする。ブロクサムはウェブ・エリスと同時期の人物ではなく、53年前に起こったとされる出来事について自分に伝えた匿名の人物の言葉を漠然と引用した。この物語は、1895年のオールド・ラグビアン・ソサイエティの公式調査以来、真実とは思えないとして退けられてきた[6]。しかしながら、ラグビーワールドカップの優勝杯はウェブ・エリスに敬意を表してウェブ・エリス・カップと命名され、ラグビー校にある碑はこの「功績」を記念している。

ラグビーフットボールは、ラグビー校のOBによって1843年にロンドンで結成されたガイズ・ホスピタル・フットボール・クラブ(英語版)が世界初で最も古い「フットボールクラブ」であると強く主張している。英語圏各国では、ラグビー校の規則に基づいて試合を行うために数多くのクラブが設立された。これらのうちの一つである1854創設のダブリン大学フットボールクラブ(英語版)が、コードを問わずほぼ間違いなく世界最古の現存するフットボールクラブとなっている。1858年にロンドンで創設されたブラックヒース・ラグビー・クラブが大学/学生クラブ以外で最も古い現存するラグビークラブである。チェルトナム・カレッジ(英語版)(1844年)、シェアボーン校(英語版)(1846年)、ダラム校(1850年)が最も古い記録に残る学校のクラブである。Francis CrombieとAlexander Crombieは1854年にダラム校を通じてスコットランドにラグビーを紹介した。
ボール

[7]

1860年代末まで、ラグビーはブタの膀胱(英語版)製のブラダー(空気袋)を革で覆ったボールを使ってプレーされた。ブラダーの形状によってボールは何となく楕円形となったが、今日よりもかなり球形に近かった。トマス・ヒューズ(1834年から1842年までラグビー校に通った)による小説『トム・ブラウンの学校生活』は、ボールが完全な球ではなかったことを示している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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