ラクチョウのお時
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ラクチョウのお時(ラクチョウのおとき、1928年[1][2] - 不詳)は、戦後日本の元街娼パンパン)の通称。マスメディアへの露出を経て、その後の更生によって広く知られるに至った人物。

「ラクチョウ」とは東京有楽町の通称。名の表記は「ラクチョウのおトキ[3]」、「ラク町のお時[4]」とも。

本名は西田 時子[1][5]とされるが、これは自称とする資料もある[1]ほか、「本名その他素性ははっきりしない」とする資料もある[1]
経歴

東京市本郷区(のちの東京都文京区本郷)で生まれ育った[6]。「飯田橋にあったN女子商業」に在学中、女子挺身隊員として工場に勤務した[6]。1945年、本郷一帯が空襲を受けて生家が全焼し、両親や姉妹の生死が不明となり[6]、そのまま離別[1][7]

終戦後、ミカンやタバコなどのヤミ売り[6]を行いながら、上野駅の地下道[6]や、空襲による破壊のため廃墟になっていた有楽町の日劇地下[1][6]で寝泊まりする生活を送る。冬の寒さが厳しくなると、上野より暖かい日劇地下を定宿に定めた[6]

1946年頃[8]までに、有楽町界隈のパンパンを仕切っていた女親分・通称「夜嵐あけみ[1][8](夜桜のあけみ[2]とも)」の妹分となり、自身も有楽町駅付近のガード下に立つパンパンとなる[1]。警察に勾留された仲間へ差し入れを行ったり、体調を崩した仲間の入院を世話したりするうちに「姉さん」と慕われるようになる[6]。以上の経歴はお時本人が雑誌『實話と讀物』20巻3号(博文館、1948年3月)の取材で述べたところによる[6]

当時の東京では、ラクチョウ=有楽町に約150人[1][9][10]、バシン=新橋、ダカン=神田、ノガミ=上野と合わせて約1000人[8][9]とされる、多数のパンパンがおり、その多くが稼ぎを、ヒモとなった地回りのならず者に搾取されていた[8]。夜嵐あけみはこれに抵抗するため、お時および、「ピーナツ」「ぼたんのお君」「江戸川」「やさぐれの松代」「米子」「上海お照」とともに、みかじめ料と引き換えに稼ぎを保全し、生活を支え合うグループを組織していた[8]。このようなパンパングループは多くあり、社会への憎悪を募らせていた分、仲間うちの結束が強かった。また、結束をさらに強固なものとするため、独特の符牒隠語)を使用していた。お時を含む、当時のパンパンらの特殊な通称の名付け方はこのことに関係している[5]。1947年3月にはパンパンを題材とする小説『肉体の門』(第一部)が発表されて話題となり、深刻な社会問題として世論の関心が高まった[11]

1947年4月8日夜20時頃[9]日本放送協会(NHK)のアナウンサー・藤倉修一が技術員1人を伴い、ラジオ番組『街頭録音』のために、お時ら有楽町界隈のパンパンへのインタビューの収録を行った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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