ラカイン州
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ラカイン州(アラカン州)
(MLCTS
: rahkuing pranynai)

州都シットウェ
地域海岸
面積36,780 km2
人口2,698,000
民族ラカイン族(アラカン族), チン族(英語版), チャクマ族(英語版), ムロ族(英語版), ロヒンギャ[1](カマン(英語版)[2]
宗教上座部仏教, イスラム教, ヒンドゥー教, その他

ラカイン州(ラカインしゅう)は、ミャンマーの行政区画である。面積36,762平方キロメートル、州都はシットウェ。国土の南西に位置してインド洋ベンガル湾に面し、西端でバングラデシュ国境を接する。
歴史詳細は「ラカインの歴史(英語版)」を参照

今日のラカイン州に対応する地域、アラカンの歴史は、おおまかに7つの時代に区分する事ができる。最初の4つの時代は、ラカイン族が支配したアラカン王国で、政治組織の権力中枢の存在したラカイン北部地域、特にカラダン川流域を地盤としていた。従って、これらの時代は、ダニヤワディー(英語版), ワイタリ(英語版), レイムロ(英語版), ミャウウーに分けられている[3]

1784年から1785年にかけて、アラカン王国はビルマコンバウン王朝に征服され、それ以後、ラカイン地方はコンバウン王朝の領土となった。1824年第一次英緬戦争(英語版)が勃発し、1826年にはラカイン州とタニンダーリ地方域が同時に、本国への返還として、ビルマから英国へ割譲された。しばらくして英領インドのビルマ地方の一部に編入された。1948年、ビルマは独立を与えられたが、ラカイン族は新共和国に併合されたままになった。
独立王国アラカン王ミン・ビンの像

アラカンの口承や寺院の碑文を基にするならば、ラカイン州の歴史は相当古い時代にまで遡ることが出来る。ラカイン族は自身の民族史を紀元前3325年まで遡って、1785年の最後の支配者に至るまでの227人のアラカン王国の君主を明らかにしている。彼らはその領土、すなわちアヴァ(英語版), イラワジ・デルタ(英語版), en:Thanlyin (シリアム)の港町、ベンガル東部(ラカイン族と近縁のマルマ族(英語版)が居住するチッタゴン丘陵地帯)も描いている。しかし、歴代のアラカン王国の領土が、既知の特定な歴史的ドキュメントによる正確な確証が与えられているわけではない。

ラカイン族の伝説によれば、最初に記録された王朝は北部の町ダニヤワディー(英語版)周辺を中心として紀元前34世紀から紀元前327年まで続いたとされている。ラカイン族の書物と碑文が伝えるところによれば、有名なマハムニ仏(英語版)が作られたのは紀元前554年のことで、その時ブッダが王国を訪れたとされている。

紀元4世紀にダニヤワディーが衰亡すると、権力の中心はワイタリの町を拠点とする二番目の新王朝に移った。この時期こそ、それ以前より多くの考古学的遺物が残っているワイタリ期と、ラカインの文化・建築・仏教の古典時期とが一致するのである。ワイタリ王朝の権力の衰退とともに、三番目の新王朝はレイムロ(英語版)川沿いの4つの町に出現し、レイムロ王朝期を迎え、4つの主要都市は順番に首都の役割を果たした。

1429年、ミン・ソー・モン(英語版)が最後の王朝を樹立し、1430年にミャウウーを拠点にした。ラカイン族は、大航海時代をラカイン族の黄金時代と看做しており、ミャウウーが商業港として重要な位置を占めるようになると、アラビアやヨーロッパとの広範囲な海運に組み込まれた。1666年ムガル帝国チッタゴンを奪われると、17世紀を通じて、衰退を続けた。内乱・暴動や王の追放が非常に一般的であった。彼らがアジアで覇を唱えた時代の間、ヨーロッパから来航したポルトガル人がアラカンに一時的施設を得た。
非ラカイン族による支配

1785年(あるいは1784年)、内部分裂していた王国がビルマのコンバウン朝に降伏した。マハムニ仏は戦勝品としてビルマ人に奪われた。緩衝国として機能していたアラカンが陥落したことによって、膨張主義のビルマとイギリス東インド会社の領土が直接接触した結果、緊張が将来暴発する舞台を設定してしまった。様々な地政学的諸問題が、以前にビルマに戦勝品として奪われたマハムニ仏を理由に、第一次英緬戦争を引き起こし、今回は神殿の巨大な鐘をイギリス軍が戦勝品として、イギリス東インド会社の第2師団司令官のBhim Singhへその勇気を称えて送った。この彫刻された巨大な鐘は、現在もインドウッタル・プラデーシュ州en:Kanshi Ram Nagar districten:Kasganj近郊のNadrai村にあるヒンズー教神殿(英語版)に備え付けられている。1826年、ヤンダボ条約(英語版)で戦闘は終了し、ビルマはen:Company rule in India(en:Presidencies and provinces of British India。1858年から英領インド)にアラカン(ラカイン州)とテナセリム(タニンダーリ地方域)を割譲することを余儀なくされた。英国はアキャブ(Akyab, 現シットウェ)をアラカンの区都とした。後に、アラカンはイギリス領インド帝国の一地方になり、1937年にビルマがインド帝国から分離され別の直轄植民地である英領ビルマになった時、その一地方として返還された。アラカンはミャウウー王朝期の伝統的な区分に添う3つの地区に行政上の区分がなされていた。
第二次世界大戦

第二次世界大戦中のビルマの戦いにおいて、ビルマ中心部と英領インドを結ぶ位置にあるアラカン(ラカイン州)は、日本軍英印軍の激戦地となった。有名なのは第一次アキャブ作戦第二次アキャブ作戦ラムリー島の戦いである。
独立詳細は「en:March 1966 Mizo National Front uprising」および「チッタゴン丘陵地帯紛争(英語版)」を参照

1948年、アラカンは新たに独立したビルマ連邦の一部となり、3つの地区はラカイン管区となった。1950年代から、ラカイン地方の分離(en:secession)独立を回復するための運動が活発になった。この感情をなだめる役割のひとつとして、1974年ネ・ウィンの社会主義政権は、アラカン地区からラカイン州を構成し、地域の多数派のラカイン族に名目上の自治権を与えた。ムジャーヒディーンと自称しているイスラム教分離主義勢力[4]もまたイスラム教徒が多いバングラデシュのベンガル地方に隣接する国境地域で、イスラム国家樹立を目的とする反乱を継続している。これに対する弾圧で生じた難民問題が、国際連合でも無国籍扱いになっている、ロヒンギャ問題である。同様の難民問題は、バングラデシュからインドのトリプラ州へ流入するベンガル人問題でもみられている(トリプラ紛争(英語版))。バングラデシュ政府によるチッタゴン管区の少数民族居住地での同化政策や、ダム建設による10万人近い住民の強制立ち退きも、両国の難民に共通する背景である。うち2万人がミャンマーへ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。2012年6月8日には、ロヒンギャと仏教徒との対立が激化。大規模な衝突が発生し、ラカイン州には非常事態宣言が出された(ラカイン州暴動 (2012年)(英語版))。外国人(支援団体)に排他的傾向を示す住民も多く、2014年2月には州都にある国境無き医師団の事務所に抗議行動が行われたほか、翌3月には世界食糧計画の倉庫が暴徒に襲撃されている[5]2017年8月25日には、州内の複数の警察、軍の施設が武装組織に攻撃を受ける事件が発生。アラカン・ロヒンギャ救世軍が犯行声明を出した[6]

ロヒンギャがバングラデシュなどへ難民として脱出する一方で、ムスリムが多いバングラデシュで差別・迫害を受けたチッタゴン丘陵地帯に住む仏教徒が、隣接するラカイン州へ移住する例も多い。ミャンマーは全体として仏教徒が多く、ミャンマー国軍などがラカイン州の仏教徒人口を増やすため、ロヒンギャが脱出した跡地の村を提供するなどして移民を勧誘しているとの報道もある[7]

21世紀初頭から、中華人民共和国のエネルギー資源計画に基づいた中国・ビルマ・パイプラインと大型船が寄港可能な港湾施設の建設が始まった[8]


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