ラウル・カストロ
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ラウル・カストロ
Raul Castro


キューバ共産党
第2代 中央委員会第一書記
任期2011年4月19日2021年4月16日
キューバ共和国
第2代 国家評議会議長閣僚評議会議長
任期2008年2月24日2018年4月19日
副大統領ミゲル・ディアス=カネル
キューバ共和国
国家評議会第一副議長
任期1976年12月3日 – 2008年2月24日
元首フィデル・カストロ国家評議会議長
キューバ共和国
初代 革命軍事相(国防相)(英語版)
任期1959年2月16日 – 2008年2月24日
非同盟諸国首脳会議
事務総長
任期2008年2月24日2009年7月16日

出生 (1931-06-03) 1931年6月3日(92歳)
 キューバ ビラン(英語版)
政党キューバ共産党
配偶者ヴィルマ・エスピン(英語版)(1959年 - 2007年
署名

ラウル・モデスト・カストロ・ルス(スペイン語: Raul Modesto Castro Ruz, 1931年6月3日 - )は、キューバ政治家軍人革命家。兄のフィデル・カストロとともにキューバ革命を指導した。

革命後は、同国の最高指導者となったフィデルの後継者として、革命軍事相(国防相)、キューバ共和国国家評議会第一副議長、閣僚評議会第一副議長、キューバ共産党中央委員会第二書記などを歴任したのち、2008年2月24日、フィデルの退任に伴い、国家評議会議長国家元首)兼閣僚評議会議長首相)に就任[1]。2018年4月19日に両職から退任し、国家評議会、閣僚評議会のミゲル・ディアス=カネル第一副議長に譲り、2021年4月には共産党第一書記の座もディアス=カネルに譲り第一線を退いた。
来歴
生い立ち

ビランにて、ガリシア人移民の父アンヘル・カストロ・イ・アルギス(英語版)と、ガリシア人を祖先に持つキューバ人の母リナ・ルスとの間に、男兄弟3人の末子として生まれる。フィデルとラウルには、兄弟のほかに4人の女姉妹(その内の1人にフアニータ・カストロがいる)、そして片方の親が違う兄弟が2人いる。

幼少期は兄フィデルと共にハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンなどのイエズス会学校で教育を受け、ハバナ大学では社会科学を専攻した。成績優秀だったフィデルに比べ、ラウルは平凡な学生だったという[2]

革命以前から社会主義政党であるキューバ人民党に入党するなど、兄のフィデルよりも当初から共産主義に傾倒していたとされ[3][4]、学生時代にはフィデルと共に積極的に学生運動に参加していた[5]。また、1953年には、ヨーロッパを旅行中に、KGBのニコライ・レオノフ(英語版)と接触している[3]
キューバ革命1958年、ラウル(左)とゲバラ(右)

1953年、7月26日運動のメンバーとしてモンカダ兵営襲撃に参加し、逮捕・投獄され、1955年に恩赦で釈放された[6][7]。釈放後はフィデルと共にメキシコに亡命し、1956年12月にグランマ号に乗り込み再びキューバに戻ったが、上陸後すぐにキューバ空軍に発見されマエストラ山脈に逃げ込み、ゲリラ戦を展開した。

1958年2月27日、ラウルはフィデル、フアン・アルメイダと共に東部方面の指揮を執り、チェ・ゲバラカミロ・シエンフェゴスは西部方面の指揮を執りハバナを目指すことになった。6月26日には、オリエンテ州で10人のアメリカ人と2人のカナダ人を拉致し、27日にはアメリカ海軍兵士24人を人質にした。ラウルはキューバ空軍の空爆を停止させることに成功し人質を解放したが、これに反発したアメリカ合衆国バティスタ政権への軍事支援を強化した[8]1959年8月、サルバドール・アジェンデ(右端)と会談するラウル(左端)

10月にはオリエンテ州を掌握し、また、別働隊を率いるゲバラがサンタクララの戦いで勝利したことで大勢が決し、1959年1月にバティスタはドミニカ共和国に亡命した[9]。バティスタ政権崩壊後、ラウルは政権軍幹部の処刑を指揮・実行した[10]

キューバ革命後、フィデルを首班とする政権が発足すると、1959年に革命軍事相(国防相)(英語版)に就任している。1965年10月にキューバ共産党が結成されると第二書記に就任し、政権のNo.2となった。

ゲバラが1965年にキューバを去った遠因に、ラウルとの確執があったとの見方もある(ゲバラをフィデルに引き合わせたのはラウルである)。
フィデルの後継者
権力継承ラウル・カストロ(2008年12月18日)

1976年の憲法制定で国家評議会第一副議長に就任し、1986年に兄が初めて「後継者はラウル」と明言した。

1994年7月26日の革命記念日では、兄に代わって初めて演説を行った。その後、1997年の党大会で正式に後継者に指名された。近年は、かつては激しく対立した中華人民共和国との関係改善を進め、自らも代表団を率い訪中。2008年には国家主席である胡錦濤の訪問に敬意を払った。

2006年7月31日、フィデルが腸の手術を受けたために、その権限が数週間ラウルに委譲されると発表された[11][12] が、その後フィデルの回復が高齢のためか思わしくなく、暫定期間は1年半ほど続いた。同年に行われたインタビューでは「私は控えめな性格なので、公の場に出ることには慣れていない」とコメントしている[13]


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