ラウリ・ハジムバ
Рауль ?а?ьымба
アブハジア共和国
第4代 大統領
任期2014年9月25日 – 2020年1月12日[1]
空席
アブハジア共和国
副大統領
任期2005年2月12日 – 2009年5月28日
元首セルゲイ・バガプシュ大統領
アブハジア共和国
首相
任期2003年4月22日 – 2004年10月6日
元首ウラジスラフ・アルジンバ大統領
アブハジア共和国
防衛大臣
任期2002年12月19日 – 2003年4月22日
首相ゲンナジー・ガグリア
ラウリ・ハジムバ(アブハズ語: Рауль ?а?ьымба、グルジア語: ???? ???????、ラテン文字転写:Raul Khajimba(Khazhinbaとも)、1958年3月21日 - )は国際的に未承認のアブハジア共和国の大統領。2014年のアブハジア革命(英語版)の後の大統領選で大統領に選出された。2010年よりアブハジア挙国一致フォーラム(英語版)の代表を務める。2005年から2009年まで副大統領、2003年から2004年まで首相、2002年から2003年まで防衛大臣を歴任。これまで2004年、2009年、2011年に大統領選に出馬し、落選していた。ラウル・ハジンバとも表記される[2]。 1958年3月21日、トゥクヴァルチェリにて出生。同地で学校に通い、発電所でメカニックとして働いた。1976年から1978年までソ連防空軍に所属。1979年から1984年までアブハジア国立大学の法学部で学び、卒業。1985年から1986年までミンスクのKGBの学校で学び、1992年までトゥクヴァルチェリでKGBのエージェントを務めた。 1992年から1993年までのアブハジア戦争
生い立ち
1996年から1998年までハジムバは国家税関委員会の対密輸部門の長を務め、1998年には国家税関委員会の副会長に就任した[3]。 1999年12月13日にスフミでの政府関係者を狙った爆弾テロが起こると、ウラジスラフ・アルジンバ大統領は国家安全保障大臣を解任し、ハジムバを後任に指名した[4]。2001年6月18日、彼は兼任で第一副首相となった[5]。11月1日、内務大臣が彼の後任の安全保障大臣となり[6]、2002年5月16日、ハジムバは防衛大臣に任命された(第一副首相は留任)[7]。
大臣として
安全保障大臣、副首相、防衛大臣(1999-2003)
首相(2003?2004)(英語版
その後、アルジンバ大統領は重病で公の場に姿を見せなくなり、ハジムバが彼の代わりに国家元首として活動。任期中、ロシア外相のイーゴリ・イワノフを含む、多数の政治指導者と面会した。彼はグルジアとの再統一に猛反対し、2004年5月に2国で連邦を作ろうというグルジア大統領のミヘイル・サアカシュヴィリの提案に激しく抗議した。 ハジムバは2004年10月の大統領選挙
2004年、2005年の大統領選
選挙後、バガプシュ、ハジムバ双方が自らの勝利を主張。ハジムバはバガプシュの勝利はGali(英語版)地域での選挙違反が原因である事を指摘した。アルジンバはハジムバを首相から解任し、代わりに互いの折衷候補としてノダル・ハシュバ(英語版)を首相に据えた。その後は公共での抗議活動、法廷闘争、国会での論争など、2か月間に渡り激しい対立が続いた。
2004年12月、ハジムバとバガプシュの間で合意が成立し、次のやり直し選挙でバガプシュが大統領候補、ハジムバが副大統領候補として出馬し[3][14]、副大統領に防衛、外交の権限を委譲する事となった。この大同盟は2005年1月の大統領選挙(英語版)で90%以上の得票を獲得し、圧勝した。 しかし、選挙後、多くのアナリスト達はハジムバの特権はバガプシュや首相のアレクサンドル・アンクヴァブによってある種の制限がかかるだろうと予測していた。 任期中、彼はアブハジアを守ってくれる国はロシアのみという事と、コドリ渓谷(アブハジア北東部にあり、領内で唯一、グルジアの実効支配下にある渓谷)を取り戻すには武力行使が避けられない[15]との外交上のスタンスをバガプシュの外交政策に向けて提言し続けた。そして2008年8月、南オセチア紛争のさ中、アブハジア共和国軍はコドリ渓谷を武力で奪還する事に成功した[16]。
副大統領として(2005?2009)