ラウフェン・アム・ネッカー
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:バーデン=ヴュルテンベルク州
行政管区:シュトゥットガルト行政管区
郡:ハイルブロン郡
市町村連合体:ラウフェン・アム・ネッカー行政共同体
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯49度04分35秒 東経09度09分24秒 / 北緯49.07639度 東経9.15667度 / 49.07639; 9.15667座標: 北緯49度04分35秒 東経09度09分24秒 / 北緯49.07639度 東経9.15667度 / 49.07639; 9.15667
標高:海抜 175 m
面積:22.63 km2
人口:

11,755人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:519 人/km2
郵便番号:74348
市外局番:07133
ナンバープレート:HN
自治体コード:

08 1 25 056
行政庁舎の住所:Rathausstrase 10
74348 Lauffen am Neckar
ウェブサイト:www.lauffen.de
首長:クラウス=ペーター・ヴァルデンベルガー (Klaus-Peter Waldenberger)
郡内の位置

地図

ラウフェン・アム・ネッカー (ドイツ語: Lauffen am Neckar, ドイツ語発音: [?la?ufn? am ?n?kar][2]アレマン語: Laffen am Necker) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡に属す都市。ラウフェンは、特に、詩人フリードリヒ・ヘルダーリン生誕の地として、あるいは多くの栄誉に浴したワイン、ラウフェナー・カッツェンバイサー・シュヴァルツリースリングでよく知られている。
地理

ラウフェンは、ハイルブロン郡南部、郡庁所在地ハイルブロンの南9km、州都シュトゥットガルトから北に50kmのネッカー川沿いに位置する都市で、この市内でツァーバー川がネッカー川に合流する。かつて、北に向かって流れてきたネッカー川は、ここで岩山にぶつかって回り込み、大きなほぼリング状に西側への環を描いていた。この岩山は、水の浸食作用によって紀元前400年から紀元前100年頃の時代に崩落した[3]。ネッカー川は、この時にできた裂け目を通り、多くの早瀬や、蛇行する急流となって流れ下った。こうした「早瀬」("Laufen")が都市名の由来である。ただし、20世紀に航路が造られる際に、ダムが造られて早瀬は消えてしまった。古いネッカー川の西側環状の河床はほとんど干上がってしまったが、ツァーバー川がネッカー川に合流する前の数kmの川筋は、かつてのネッカー川リングの北側一部にあたる。環状の古い河床は丘陵で縁取られ、その斜面は森で覆われているが、一部はブドウ畑としても利用されている。

現在の川筋の西側に丘があるが、これはネッカー川の大決壊時に、東側の川筋(現在の川筋)によって分離されたかつての岩壁の一部である。この丘の末端がネッカー川に接するあたりに村ができ、後にラウフェン=ドルフと呼ばれるようになる。大決壊では川に中州もできた。この中州には、市役所(以前はラウフェン伯の城であった)が建てられており、また、自然保護地域にもなっている。ネッカー川の東側にも丘陵がある。これは大決壊で崩壊した岩山の名残の片割れである。この丘陵地にも後にラウフェン=シュタットの一部として村が造られた。二つの村は橋で結ばれ、ラウフェン=シュタット側からは中州の島にもう一つ橋が架けられた。ネッカー川西岸の村やツァーバー川から北側のラウフェン=デルフレは、修道院領であった。

ラウフェンの東13kmから15.5kmのレーヴェンシュタイン山地に、広さ約153haの飛び地、シュタットヴァルト・エッツレンスヴェンデンがある。この森林地域は、おそらく、市が創設された1200年頃からすでにラウフェンに属していたと考えられている。ラウフェンは、この飛び地以外に森がほとんど無いため、建築材や薪を確保する必要があった。

飛び地の森林地域には、海抜452mの市内最高地点がある。飛び地を除いた最高地点は、東部のレングルントの海抜257.9mの地点である。また最低地点は、市内北部のネッカー川沿いで、海抜160mである。[4]ガイガースベルクから市内を望む
隣接する市町村

ラウフェンに隣接する市町村は、西から時計回りに、ブラッケンハイムノルトハイムハイルブロン(郡独立市)、タールハイムイルスフェルトネッカーヴェストハイムキルヒハイム・アム・ネッカールートヴィヒスブルク郡)である。飛び地のシュタットヴァルト・エッツレンスヴェンデンは、西からアプシュタットウンターグルッペンバッハレーヴェンシュタインバイルシュタインに囲まれている。これら町村は、ハイルブロンとキルヒハイム以外はすべてハイルブロン郡に属す。
市の成り立ち

ラウフェン・アム・ネッカーは、1914年4月1日に、ラウフェン=シュタットとラウフェン=ドルフが、ラウフェン・アム・ネッカーとして合併して成立した。[5]
歴史ローマ時代の遺跡
最初の定住者と名前の由来

ラウフェン周辺地域には、おそらく紀元前の時代から人が定住していたことが、わずかではあるが発掘された人骨により証明されている。この村は、現在のネッカー古橋、城跡の中州、レギスヴィンディス教会付近が古くから渡渉可能な地点であり、人や動物がこの場所を渡っていた。元々ネッカー川には渡渉可能な地点は少なく、最も近い別の渡渉箇所は数kmも離れている。また、その両側の岩山は、太古から渡渉地の監視所として、あるいは天然の要害として魅力的な場所であった。

2世紀から3世紀のローマ時代には、現在の市街中心部から約2km南東にあるブルンネンエッカーに農場の原型が造られ、瓶やコインが発掘されている。

西暦260年頃にローマ人が去るとアレマン人がこの地にやって来た(ブルンネンエッカーの泉付近から墳墓遺跡が発見されている)。500年頃にフランク人が入り込み、ラウフェンにマルティン教会を含む王領を築いたが、王領と侯領との比率はたびたび変化した。823年の文書には「聖マルティンの栄誉に捧げられたVilla Hlauppaにあるネッカーガウの教会」と記載されている。ここで記載された Hlauppaという名前(これが後に、Lauffa, Laufen, Lauffen と変化する)は、早瀬や流れの急な蛇行に面した場所によくある地名である(地理の項参照)。ラウフェンが面している急流は、大きな環状蛇行部の基部が大崩落して短縮してできたものである。
9世紀から11世紀フランク王ルートヴィヒはエルンスト伯にレーエンとしてラウフェンを与えた。レギスヴィンディス教会所蔵

832年フランク王国の国王ルートヴィヒ1世(敬虔王)は、未開のこの村を、オーバープファルツ地方ノルトガウのであった娘婿のエルンストにレーエンとして与え、この不毛の地を王の村にふさわしいものにするよう命令した。ネッカー川沿いの斜面を初めて開墾したのも、ネッカー川沿いに最初の城を築いたのもエルンストとされている。伯の娘レギスヴィンディスは幼少期に乳母によって殺害され、遺体はネッカー川に遺棄された。このため、エルンスト辺境伯は、自らの本拠地であるオーバープファルツへ戻ってしまった。

ラウフェンはレーエン期間が満了し、861年に伯が亡くなると再び王の直轄地となった。889年923年993年にそれぞれ当時の王がこの村の統治権をヴュルツブルク司教に委託している。1003年神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世は、この整備された村に修道院を創設することを宣し、これにより司教ハインリヒ・フォン・ヴュルツブルク管轄下のベネディクト会修道院が設立された。
中世盛期

11世紀にポポン家から創設されたラウフェン伯が登場し、ヴォルムス司教と結んだ。ラウフェン伯一門は、再び村と城の強化に努めた。1150年頃、東の川岸にあった不自然な岩が撤去され、現在は「プファルツグラーフェンブルク」(宮中伯の城)と呼ばれている水城の原型が造られた。ハインリヒ2世、ボッポ5世、コンラート2世の三兄弟が亡くなった後、男系後継者がおらず、この伯家一門は断絶し、この都市は13世紀にまたもや国王直轄地となった。

1227年に皇帝フリードリヒ2世は、ラウフェンをジンスハイムエッピンゲンと共にバーデン=バーデン辺境伯ヘルマン5世に借金の担保として与えた。


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