ラインラント (SMS Rheinland) はドイツ帝国海軍の戦艦。ドイツ初の弩級戦艦ナッサウ級の1隻。
艦歴
建造ナッサウ級の線画
ラインラントは古いザクセン級装甲フリゲート、ヴュルテンベルクの代艦として、エルザッツ・ヴュルテンベルク (Ersatz Wurttemberg) という仮称で発注された[1]。シュテッティンのAGフルカン社の造船所で1907年6月1日に起工[2]。同型艦ナッサウ同様、建造は完全に秘密裏に進められ、兵士が造船所やクルップ社のような建造資材を納入する会社を警護した[3]。1908年9月26日進水[2]。艤装は1910年2月末までに完了した。造船所の工員により、1910年2月23日から3月4日までスヴィネミュンデ沖で限定的な公試が行われた。それからキールへ運ばれ、そこで1910年4月30日に就役し大洋艦隊に加わった[4]。 1910年8月30日にラインラントはヴィルヘルムスハーフェンへ移され、大多数の乗組員は新造の巡洋戦艦フォン・デア・タンに移った。9月に実施された秋の艦隊演習の後、乗組員は退役した前弩級戦艦ツェーリンゲン ラインラントは戦争中のほぼ全ての艦隊の出撃に参加した[4]。最初の作戦は主に巡洋戦艦により行われ、1914年12月15日から16日にスカボロー、ハートリプール、ウィットビーを砲撃した[5]。この作戦中、弩級戦艦12隻と前弩級戦艦8隻を含むドイツ艦隊は、6隻の巡洋戦艦からなるイギリス戦隊の10海里以内に接近した。しかし、護衛の駆逐艦同士の衝突により、ドイツ艦隊の指揮官フリードリヒ・フォン・インゲノール 1915年8月、ドイツ陸軍によるリガ攻略を支援するため、ドイツ艦隊はリガ湾からロシア軍を追い払おうとした。その実現のため、ドイツの作戦立案者は湾内のロシア海軍部隊の追放または破壊を目論んだ。ロシア海軍はそこに前弩級戦艦スラヴァや多数の砲艦および駆逐艦を有していた。また、ドイツ海軍は、湾の北の入り口に機雷原をつくりロシア海軍の増援が湾内に入れないようにしようとした。作戦のために集結した艦隊には、ラインラントとその同型艦3隻、ヘルゴラント級戦艦4隻、巡洋戦艦フォン・デア・タン、モルトケ、ザイドリッツが含まれていた。指揮官はフランツ・フォン・ヒッパー中将であった。8隻の戦艦は、ロシア艦隊と交戦する部隊の援護にあたる予定であった。8月8日に実行された1度目の作戦は不成功に終わった。ロシアの機雷原の掃海に時間がかかり、ドイツの機雷敷設艦ドイチュラントによる機雷敷設が行えなかった[8]。 湾内進入の2度目の試みは1915年8月16日に行われ、戦艦ナッサウ 8月末までにラインラントは大洋艦隊とともに北海沿岸の基地に戻った。次の作戦は9月11日から12に行われた北海への出撃であったが、この時は何もおきなかった。次の出撃は10月23日、24日にあったが、イギリス軍部隊とは遭遇しなかった。1916年2月12日、ラインラントは広範な整備のため造船所に向かった。整備は4月19日まで続いた。艦隊に戻ったラインラントは4月21日から21日に再び北海への出撃に参加した。2日後には砲撃作戦が実行された。4月24日から25日に第1偵察群の巡洋戦艦がヤーマスとローストフトを攻撃し、ラインラントはその支援にあたる戦艦の1隻であった[11]。この作戦中、巡洋戦艦ザイドリッツが触雷した。視界不良のため、イギリス軍により妨害がなされる前に作戦は中止となった[12]。 ラインハルト・シェア提督はすぐにイギリス沿岸への次の攻撃を計画したが、ザイドリッツの損傷や第3戦艦戦隊の弩級戦艦の何隻かでコンデンサーに問題があったことから、計画は5月末まで遅れた[13]。
第一次世界大戦前
第一次世界大戦
リガ湾の戦い
北海に戻ってから
ユトランド沖海戦詳細は「ユトランド沖海戦」を参照