ラインホールド・ニーバー
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Reinhold Niebuhr
ラインホルド・ニーバー

生誕Karl Paul Reinhold Niebuhr
(1892-06-21) 1892年6月21日
アメリカ
ミズーリ州、ライトシティ
死没1971年6月1日(1971-06-01)(78歳)
アメリカ
マサチューセッツ州、ストックブリッジ
教育エルムハースト大学、エデン神学校、エール神学専門学校
職業神学者
ユニオン神学校 教授(1930-1960)、
雑誌編集者(1941-1966)
活動期間1915-1966
著名な実績キリスト教的リアリズム
影響を与えたもの武田清子
宗派プロテスタント
配偶者ウルスラ・ケッペル-コンプトン
受賞1964年 大統領自由勲章 受勲者
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ラインホルド・ニーバー(英語:Reinhold Niebuhr, 1892年6月21日 - 1971年6月1日)は、アメリカ自由主義神学者、政治や社会問題についてのコメンテーターである。1920年代に左派牧師として登場し、1930年代には新正統主義へと立場を変え、どのように傲慢(英語:pride)の罪がをこの世に作りだすかを説明した。そして、キリスト教的リアリズムとして知られる神学に影響を受けた哲学的な考え方を作りだした。ニーバーは、現実に取り組むことのない空想的な理想主義ユートピアニズム)を非難し、1944年『光の子と闇の子』では以下のように書いている。「正義を取り扱うことのできる人間の能力が民主主義を可能にする。しかし、不正義に陥りがちな人間の傾向が民主主義を必要とする。」

1945年以降、ニーバーのリアリズムは深化したとされ、結果としてソビエト連邦と対峙するアメリカの支援に彼を導いたとされる。

歴史家のアーサー・シュレシンジャー・ジュニアはニーバーを「20世紀で最も影響力のあるアメリカの神学者」と評し[1][2]、『タイム』は死後にニーバーを「ジョナサン・エドワーズ以来のアメリカで最も偉大なプロテスタントの神学者」と呼んだ[3]

キリスト教的な教義と結びつけられた、外交問題についてのリアリズム及び近代的「正しい戦争」についての提言によって、長きにわたって社会的な影響力を保持した。ニーバーの、政治・宗教観は、多くのリベラルに影響を与え、「現実主義的な」対外政策を後押しすることとなった。[4]マイルス・ホートンやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアなどの活動家たちやアメリカの対外政策についての近年のリーダーたち[5][6][7]ジミー・カーターマデレーン・オルブライトヒラリー・クリントンジョン・マケインバラク・オバマなどは、彼ら自身へのニーバーの重要性を認めている。[8]
生涯
青年時代と教育

ニーバーは、ミズーリ州ライトシティ(Wright City)に生まれた。父は、ドイツ系移民のアメリカ人、グスタフ・ニーバーで、母はその妻リディアであった。彼の父は、ドイツ福音派の牧師であり、ドイツで定着していたプロシア教会連合(Prussian Church Union)のアメリカ分派であった。現在、それはキリスト連合教会の一部となっている。家族は家ではドイツ語を話した。彼の弟 H・リチャード・ニーバー は、有名な宗教史家となって、彼の妹のハルダ・ニーバーはシカゴ神学教授となった。

ラインホルド・ニーバーは、イリノイ州のエルムハースト(Elmhurst college)大学に通い、1910年に卒業した。[9] 彼は、ミズーリ州ウェブスターグローブのエデン神学校(Eden Theological Seminary)で学び、イェール神学校(Yale Divinity School)に通って、神学の学士号を1914年に取得した。次の年には、修士号の得た。後にニーバーは、この時に博士号まで取らなかったことを後悔した。ドイツ系アメリカ人としてしつけられてきたことによる地方的な偏狭さから、エール(神学校)は私を知的に解放してくれた、とニーバーは後に語っている。[10]
結婚と家族

1931年に、ニーバーは、ウルスラ・ケッペル・コンプトンと結婚した。彼女は、イングランド教会の一員であり、オックスフォード大学で神学と歴史の教育を受けていた。彼女は修士号のためにユニオン神学校での研究中に、ニーバーと出会った。彼女自身が設立を助けたバーナード・カレッジコロンビア大学の提携校で女性単科大学)で何年もの間、教職に就き、後に宗教研究学部の議長となった。ニーバー夫妻は二人の子供をもうけた。クリストファー・ニーバーと、エリザベス・シフン・ニーバーである。ウルスラ・ニーバーは、彼女の議会図書館の専門論文に、いくつかのニーバーの後期の著作を、ニーバーがウルスラと共同執筆したということを示す証拠を残した(ただし、共同執筆については疑義がある)。[11]
デトロイト

1915年、ニーバーは牧師に叙任された。ドイツ福音派特命会議は、ニーバーに、ミシガン州デトロイトの聖所福音教会への勤務を命じた。着任当初、65人の信徒であったが、彼が退任する1928年には700人近くに増えていた。この信徒の増加は、ドイツ系アメリカ人コミュニティ内部だけに留まらず、成長著しい自動車産業の仕事にひきつけられてデトロイトに集まった人々の心をも動かすことのできる彼の能力を示している。1900年代のデトロイトは、アメリカで四番目に大きい都市となっていた。デトロイトには、多くの東・南部ヨーロッパのユダヤ人カトリックの移民だけでなく、黒人・白人のアメリカ南部の田舎からの出稼ぎ労働者も、集まっていた。彼らは仕事と、限られた住居を得るために争い、都市の急速な変化と、社会的な緊張の増加は、白人至上主義秘密結社 クー・クラックス・クランの増長に寄与した。1925年にはそのピークに達した。[12]
第一次世界大戦

アメリカが第一次世界大戦に突入した時、ニーバーは、デトロイトにあるドイツ語を話す小さな信徒団の無名の牧師にすぎなかった(1919年にはドイツ語の使用は中止された)。アメリカ及び近くのカナダのドイツ系アメリカ人の全ての文化は、(アメリカ、ドイツへの)二重忠誠の疑いのために、攻撃にさらされていた。ニーバーは繰り返しアメリカに対する忠誠の必要を主張し、雑誌において、全国のドイツ系アメリカ人に対して、愛国的であることを懇願したことで、読者を得た。[13] しかし、神学的には彼が行ったことは、国家への忠誠の問題以上のことである。つまり、彼は愛国主義と平和主義から、現実主義的な倫理的な立場・ものの見方を生み出そうとしたのである。多くの理想主義者・平和主義者たちがつかみ損なっている倫理に対する挑戦的な力によって生じた危険を、ニーバーは現実的に取り扱うことを試みた。戦争の間、ニーバーも彼の所属する分派に、戦争厚生委員会の事務局長として仕えた。一方で、デトロイトでの牧師の地位も維持した。心の内では平和主義者で、彼は妥協を必要なものと考え、正義のために妥協をしながら。平和を見出すために戦争を進んで支援しようとした。[14]
自動車産業

神学校卒業後、ニーバーは社会的福音を説いた。そして彼はフォードの労働者の非道徳的かつ安定感のない状況について非難し始めた。[15] ニーバーはその立場を左寄りとした。


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