ライル・アルゼイド
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ライル・アルゼイドLyle Alzado
基本情報
ポジションディフェンシブエンド
ディフェンシブタックル
生年月日1949年4月3日
没年月日 (1992-05-14)
1992年5月14日(43歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ニューヨーク市ブルックリン区
身長:6' 3" =約190.5cm
体重:255 lb =約115.7kg
経歴
大学ヤンクトン大学
NFLドラフト1974年 / 4巡目全体79位
初出場年1971年
初出場チームデンバー・ブロンコス
所属歴

デンバー・ブロンコス(1971年-1978年)
クリーブランド・ブラウンズ(1979年-1981年)
ロサンゼルス・レイダース(1982年-1985年)

受賞歴・記録



第18回スーパーボウルチャンピオン

プロボウル選出2回:(1977年、1978年)

オールプロ選出2回:(1977年、1980年)

カムバック賞(1982年)

UPI通信AFC最優秀守備選手(1977年)

NFL 通算成績

QBサック112.5回
出場試合数196試合
セイフティ3回
Player stats at ⇒NFL.com


Player stats at PFR

ライル・アルゼイド(Lyle Martin Alzado, 1949年4月3日 - 1992年5月14日)は、ニューヨーク市ブルックリン区出身のアメリカンフットボール選手。ポジションはディフェンシブエンド。ニックネームは、「レインボー」と「スリーマイル・ライル」[1]

NFLで15シーズンプレーし、ロサンゼルス・レイダースに在籍中、第18回スーパーボウルで優勝を味わった。

脳腫瘍により42歳で亡くなっている。
経歴
プロ入りまで

ニューヨーク市ブルックリン区でイタリア系及びスペイン系の父親とユダヤ系の母親の間に生まれた。10歳のときに一家はロングアイランドのセダーハーストに移った。大学進学の際にどの大学からも奨学金を得ることができなかった彼はテキサス州のキルゴア・カレッジに進学した。2年後サウスダコタ州のヤンクトン・カレッジ[2](現在廃校になって跡地は刑務所になっている。)に転校した。モンタナ工科大学との試合で相手オフェンスを圧倒している彼をたまたまデンバー・ブロンコススカウトが見たのが縁で[3] 彼は1971年のNFLドラフト4巡目でブロンコスに指名されて入団した。ブロンコスに入団した後、オフシーズンに彼は大学を卒業するのに不足した単位を取得し卒業した。
デンバー・ブロンコス

1971年、ブロンコスの先発右ディフェンシブエンドが負傷すると彼はそのポジションを奪取した。彼は60タックル、8サックでオールルーキーチームに選ばれた。2年目の1972年は91タックル、10.5サック、1973年、チームは7勝5敗2分と創設以来初めて勝ち越しでシーズンを終えた。1974年、彼は13サック、80タックル(8ロスタックル)をあげてエルビン・ベゼア、ジャック・ヤングブラッド、L・C・グリーンウッド、クロード・ハンフリー、カール・エラーらと並びNFLトップクラスのディフェンシブエンドとして評価されるようになった。チームも7勝6敗1分と2年連続で勝ち越した。

1975年、彼はディフェンシブタックルにコンバートされた。この年彼は91タックル、7サックをあげたがチームは6勝8敗に終わった。1976年の開幕戦でひざを負傷しシーズンを棒に振った[4]。チームは9勝5敗の成績をあげたがプレーオフを逃しジョン・ラルストンヘッドコーチではプレーオフ出場は果たせないと考えたチーム首脳陣は1977年からレッド・ミラーをヘッドコーチとして招いた。

オレンジクラッシュディフェンスと呼ばれた守備陣の活躍とミラーヘッドコーチの指示の下、無理なロングパスを投げるよりサックされても耐えることを学んだQBクレイグ・モートン(この年カムバック賞に選ばれた。)に率いられた[5]。攻撃で12勝2敗の成績をあげたチームは1960年以来初めてプレーオフ出場を決めて、ピッツバーグ・スティーラーズオークランド・レイダースを破り第12回スーパーボウル出場を果たした。ニューオーリンズで行われたこのゲームで彼は1サックをあげたが10-27でダラス・カウボーイズに敗れた。この年彼は8サック、80タックルの成績をあげてUPI通信が選ぶAFC最優秀守備選手となった。

1978年もチームはプレーオフに進出したが1回戦でスティーラーズに敗れた。彼は77タックル、9サックの成績を残しNFL入り後初めてセイフティを記録した(彼はキャリア通算で3回セイフティを記録しておりこれはNFL歴代2位である。)。この年彼はNFL選手会の投票で、AFC最優秀守備選手に選ばれた.[6]1979年に契約でチームと揉めた彼はクリーブランド・ブラウンズにトレードされた。

ブロンコスでの8シーズンで64.5サックをあげた[4]
クリーブランド・ブラウンズ

ブラウンズに加入した彼はディフェンシブエンドとして起用されて80タックル、7サックをあげた。1980年、チームはAFC中地区優勝を果たしたがプレーオフでレイダースに敗れた。彼はこの年チームトップの9サックをあげてオールプロにも選出された。1981年、負傷や私生活でのトラブルもあったがチームトップの8.5サックをあげたがチームは彼をロサンゼルス・レイダースにドラフト8巡指名権との引き換えでトレードした[7]
ロサンゼルス・レイダース

解雇同然でブラウンズを追い出された彼は奮起し1982年にはカムバック賞を受賞した[7]ストライキでシーズンが9試合に短縮されたが7サック、30タックルの成績を残した。

1983年、彼は50タックル、7.5サックの成績をあげた。プレーオフのピッツバーグ・スティーラーズ戦では、左タックルのトーンチ・イルキンを圧倒し、2.5サックをあげて勝利に貢献[8]第18回スーパーボウルでは、前半終了間際、スクリーンパスを受けようとするジョー・ワシントンを妨害し、ジャック・スクワレックのインターセプトリターンTDを助けた。このプレイについてワシントンはホールディングの反則を受けたと主張している。チームは38-9で勝利し、サイドライン上で彼は涙を流して喜んだ[1][9]

1984年にも63タックル、6サックをあげて、NFLマン・オブ・ザ・イヤー候補5人の1人に選ばれた[10]

1985年、9月29日のニューイングランド・ペイトリオッツ戦でファンブルリカバーTDをあげた[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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