ライモント・ファン・バルネフェルト[6] (Raymond van Barneveld, "Barney", "The Man", 1967年4月20日 - )は、オランダのプロフェッショナル・ダーツ・プレイヤーである。右投げ。デン・ハーハ出身。現在の所属団体は、プロフェッショナル・ダーツ・コーポレイション (PDC) である。彼は、ワールド・チャンピオンに5度、UKオープン・チャンピオンに2度、それぞれ、輝いた。2008年の1月から6月まで、PDC オーダー・オヴ・メリットにおいて、ナンバー・ワンにランクされていたこともある。合計で、ブリティッシュ・ダーツ・オーガナイゼイション (BDO) のメジャーで11度 (ワールド・チャンピオンシップで4度、ワールド・マスターズで2度、ワールドダーツ・トロフィーで3度、そして、インターナショナル・ダーツリーグで2度)、PDCのプレミア・イヴェントで6度 (ワールド・チャンピオンシップで1度、UKオープンで2度、ラスベガス・デザート・クラシックで1度、グランド・スラム・オブ・ダーツで1度、プレミア・リーグ・ダーツで1度)、優勝している。
以前、4回、BDO ワールド・チャンピオンシップで優勝したことに加えて、2007 PDC ワールド・チャンピオンシップでの勝利によって、5回ワールド・チャンピオンになったエリック・ブリストウと、並んだ。彼は、オランダ人史上、最も成功したダーツ・プレイヤーであり、オランダでダーツを広めるのに多大な影響を持っている。 バルネフェルトが初めてワールド・チャンピオンシップに出場したのは、1991年、レイクサイド・カントリー・クラブ
BDOでの活躍
それから、彼は、BDOサーキットで、躍進し始め、1990年9月に行われたベルジャン・オープンと、1991年3月に行われたジャーマン・オープンで、準々決勝にまで進出した。彼が初めて準決勝に進出したのは、1991年6月に開催されたスイス・オープンのことである。
彼は、1992年のワールド・チャンピオンシップでは、予選落ちしてしまったものの、1993年に、再びレイクサイドに返り咲いている。このときは、接戦の末、2-3で、後にこのトーナメントのチャンピオンとなるジョン・ロウに敗れた。1993年のワールド・チャンピオンシップが終わって間もなく、このスポーツにおける当時のトップ・プレイヤー達が、ワールド・ダーツ・カウンスル (WDC、現在のPDC) を設立し、BDOを離れていった。
バルネフェルトは、1994年のダーツ団体分裂後、BDOのオープン大会で飛躍し続け、ダッチ・オープンとベルリン・オープンでは準々決勝に、ベルジャム・オープンでは準決勝に、そしてフィニッシュ・オープン (Finnish Open) では、アンディ・フォーダムに敗れたものの、決勝に、それぞれ到達した。