ライプツィヒ
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「ライプツィヒ」のその他の用法については「ライプツィヒ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

市章地図

基本情報
連邦州:ザクセン州
行政管区:旧ライプツィヒ行政管区
郡:郡独立市
緯度経度:北緯 51度20分25.2秒
東経 12度22分29.1秒
標高:海抜 113 m
面積:297.8 km2
人口:

601,866人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:2,021 人/km2
外国人:5.9 % [2]
郵便番号:04003?04357 (旧: 70xx)
市外局番:0341
ナンバープレート:L
自治体コード:14 7 13 000
UN/LOコード:DE LEJ
市の構成:10 市区、 63 小街区
市庁舎の住所:Neues Rathaus
Martin-Luther-Ring 4-6
04109 Leipzig
公式ウェブサイト: ⇒www.leipzig.de
行政
上級市長:ブルクハルト・ユンク (Burkhard Jung) (SPD)

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度20分25.2秒 東経12度22分29.1秒 / 北緯51.340333度 東経12.374750度 / 51.340333; 12.374750ライプツィヒ(ドイツ語:  Leipzig[ヘルプ/ファイル])は、ザクセン州に属するドイツの都市である。人口は約60万人。ザクセン州では州都ドレスデンをやや上回って最大の都市で、旧東ドイツ地域ではベルリンに次いで2番目である。日本語ではライプチヒとも表記される(表記参照)。南部ドイツ語ではライプツィクと発音されることもある。バッハメンデルスゾーンそしてヴァーグナーらゆかりのドイツを代表する音楽の街、またベルリンの壁崩壊、ひいては東西両ドイツの統一の端緒となった住民運動の発祥地として知られる。
表記

日本語表記においては本項で用いるライプツィヒのほか、外来語表記の慣用によるライプチヒとするものも多い。その他、ライプチッヒ、ライプツィッヒとするものも見られる。ライプツィヒはドイツ語的な発音の地名に聞こえるが、ラテン語ではリプシア(Lipsia)と呼ばれ、もともとはスラブ語セイヨウシナノキ(ドイツ語でリンデンバウム)を意味する言葉から出ていて、ロシアリペツクラトビアリエパーヤ(Liep?ja)と語源を共有している。
地理
地勢

ザクセン州北西部のライプツィヒ盆地に位置し、約30km北西にハレ、約100km南東にドレスデン、約160km北東に首都ベルリンがある。ドイツ中部圏(Metropolregion Mitteldeutschland)の中央に位置する同圏の中心都市である。
市内中心部にはリング(Ring)と呼ばれる環状大通りが一周しており、これに囲まれた部分は中世以来の都心部として特に中心街(Innenstadt)と呼ばれる。リングはかつての市壁(街自体を囲む城壁)の外周を巡っていた遊歩道跡で、近世以降その外側へと市街地が拡大していった。中心街は直径約1kmの円状をなし、その中央にマルクト広場(Marktplatz)が位置する。
気候

気候は大陸性気候に属し、年平均気温は約8℃。夏季でも気温が30℃を超えることはまれであるが、1992年には38℃の過去最高気温を記録している。冬の気温の最低記録は1987年の-24.1℃。[3] 真冬には多くのドイツの地域と同様降雪が見られ、雪に覆われる。氷点下になることがよくあり、2010年の0℃以下記録日数は62日であった。[4]

ライプツィヒの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)3.2
(37.8)4.1
(39.4)8.7
(47.7)13.0
(55.4)18.6
(65.5)21.5
(70.7)23.7
(74.7)23.9
(75)19.3
(66.7)13.7
(56.7)7.2
(45)4.0
(39.2)13.41
(56.15)
日平均気温 °C (°F)0.7
(33.3)1.1
(34)5.0
(41)8.4
(47.1)13.4
(56.1)16.5
(61.7)18.5
(65.3)18.6
(65.5)14.8
(58.6)9.9
(49.8)4.5
(40.1)1.7
(35.1)9.43
(48.97)
平均最低気温 °C (°F)?1.9
(28.6)?2.0
(28.4)1.2
(34.2)3.7
(38.7)8.1
(46.6)11.4
(52.5)13.3
(55.9)13.3
(55.9)10.2
(50.4)6.0
(42.8)1.8
(35.2)?0.7
(30.7)5.37
(41.66)
雨量 mm (inch)30.9
(1.217)26.7
(1.051)36.5
(1.437)42.4
(1.669)42.1
(1.657)55.1
(2.169)58.2
(2.291)58.6
(2.307)44.5
(1.752)35.8
(1.409)37.1
(1.461)38.9
(1.531)506.8
(19.951)
平均降雨日数 (?1.0 mm)8.16.68.07.68.59.48.88.17.67.37.98.996.8
出典:World Meteorological Organization.[5]

歴史2つの通商街道、Via Regia(国王の道)とVia Imperii(帝国の道)

中世10世紀頃、この地を流れるエルスター川とパルテ川の合流地点近く(現在の中心街北西の一角)のスラヴ系ソルブ人の集落に、ドイツ人により城砦が築かれたことが街の始まりとされている。これを表す "urbs Libzi" という名称は1015年に初めて史料に現れる(地名の元になっている lipa は古ソルブ語で「菩提樹」の意)[6]。このため、日本でも稀に菩提樹市と称される場合がある。ちなみに明治時代に日本で用いられた漢字表記は来責府である[7] )。旧市庁舎 (1557年完成のドイツを代表するルネッサンス建築物の一つ)

東方植民に続いてやがてヨーロッパ大陸を縦横に貫く2つの通商街道が形成され、広範囲の交易が盛んになると、ライプツィヒはちょうどその交差点に位置する町として神聖ローマ帝国有数の商都へと発展してゆく。王侯貴族や司教の拠点としてではなく商人の町として1165年には都市権・市場権を獲得し、商人たちの守護聖人である聖ニコラウスに捧げられた市内最初の教会・ニコライ教会が創建された。興隆に伴って入植者が増加してゆき、1212年にはアウグスチノ会トーマス修道院(現・トーマス教会)とそれに付属するトーマス学校が創設された。1409年に同修道院内に開学したライプツィヒ大学は、現在のドイツ国内で最古の大学の一つである[8]15世紀に入ると、「大市開催地として国際的な意義を獲得した」 [9]16世紀にはルターが当地で信仰をめぐる論争を繰り広げ(ライプツィヒ討論)、ライプツィヒは後に彼によってプロテスタント化された。
諸国民戦争記念碑 (戦闘から100年となる1913年、古戦場中央に建設されたヨーロッパ最大の記念建造物)

ザクセン選帝侯領の都市となった近世以降のライプツィヒは、三十年戦争ブライテンフェルトの戦いリュッツェンの戦い)の混乱を挟みつつメッセ(後述の「見本市」参照)の開催地としてヨーロッパ屈指の商都へと成長してゆく。そして17世紀後半から「時計職、馬具職、鞣皮職、染色職などのインヌンク(ギルド)が続々と成立した」ように手工業が栄えた[10]。それと共に市民層による各時代の芸術・文化が花開き、18世紀にはドイツ地方初のコーヒー店が登場し、テレマンバッハが市民の音楽活動を率い、ゲヴァントハウス管弦楽団が創設された。1813年にはナポレオン戦争中最大規模の戦いとなった諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)が行われ、ナポレオン1世麾下のフランス軍19万と、プロイセンロシア帝国オーストリア帝国スウェーデンの連合軍36万が激突する舞台となった。

戦乱から復興後のライプツィヒは商業と並んで学芸、とりわけ西洋音楽における中心地として栄華を極める。19世紀のライプツィヒはウィーンパリと共にヨーロッパを代表する音楽の都として名を馳せ、この時代にメンデルスゾーンシューマンらが活躍した。工業化時代に入ると、ライプツィヒはその強固な経済基盤の下で工業都市として急速に発展し、それと共にドイツにおける社会民主主義運動や婦人運動の重要な拠点となった。ドイツ帝国ヴァイマル共和国有数の大都市として更なる拡大を見せ、1931年には人口71万9千人を数えた(現在までの最高記録)。

第二次大戦による惨禍の後、ライプツィヒのある中部ドイツはソ連占領区となり、1949年にそれがドイツ民主共和国(東ドイツ)となった。社会主義化したこの時代にはドレスデン、カール・マルクス・シュタット(現・ケムニッツ)と共に東ドイツの主要工業地域を形成した。メッセは社会主義政権下でも継続され、西側世界との貴重な窓口となった。東ドイツ時代末期の1989年にはニコライ教会での集会を発端とする「月曜デモ」と呼ばれる反体制運動が起き、これが東ドイツにおける民主化運動の出発点となった。当地の市民蜂起に始まり、ベルリンの壁崩壊、そして東西ドイツが犠牲者を出すことなく統一された一連の出来事は、現在東欧革命の一部として「東ドイツ平和革命(Friedliche Revolution)」と呼ばれる。東側から見る中心街

ドイツ再統一後には街並みの修復や再開発、芸術・文化面の再興などで再び急速な変遷を遂げ、現在のドイツ中部圏を代表する文化・経済都市となっている。ポルシェBMWの開発を担う新工場の建設や、アマゾンヤマザキマザックによる拠点開設、そしてDHLのヨーロッパ・ハブのブリュッセルから当地への移転といった企業進出に加え、音楽に代表される文化的環境(後述)を生かした文化創造産業も盛んである。

2015年には史料初出から1000年目を迎え、千年史記念祭の開催が予定されている。
交通
鉄道

ヨーロッパ最大の頭端式駅であるライプツィヒ中央駅があり、ドイツ中部圏における鉄道交通の要所である。同駅には一日700以上の列車が発着しており、ICERESバーンなどが利用できる。ベルリンフランクフルト中央駅および空港長距離列車駅)、ミュンヘンといった国内の各主要都市に乗り換えなしで行くことが可能。特に首都ベルリンとは毎時間運行のICEで約1時間15分で連絡している。中央駅から中心街の地下を通って市街南部へと抜ける「シティー・トンネル(City-Tunnel Leipzig)」が2013年12月に開通、中心街直下に地下駅が開業。

ライプツィヒ交通公団(Leipziger Verkehrsbetriebe GmbH)の運営する都市交通も充実しており、市内を多くの路面電車やバスが走っている。
空路

ライプツィヒ・ハレ空港(Flughafen Leipzig/Halle)が市内中心部より北西約15kmの所にある。空港はハレとライプツィヒの間にあり、貨物ターミナルにはDHLのヨーロッパ・ハブが置かれている。旅客ターミナルは鉄道駅と直結しており、市街とはSバーンやIC、バスで結ばれている。上述のシティー・トンネル開通後は空港駅から中央駅・マルクト駅(マルクト広場直下)といった中心街各駅まで乗り換えなしでアクセス可能となった。

ライプツィヒ中央駅

シティー・トンネルのルート図

旧市庁舎とマルクト駅南口(1925年完成の地下見本市ホールの入口部分を転用したもの)

中央駅前に停車中の路面電車

ライプツィヒ・ハレ空港(誘導路と高速道路が立体交差した珍しい構造)

文化

多彩な文化が栄えてきたライプツィヒは特に音楽の街として知られ、市街各地に音楽ゆかりの場所がある。芸術的環境やドイツで2番目に古い大学を有する都市として歴史上の様々な著名人がこの地へと集まった。また、世界で初めて日刊紙発行、見本市ライプツィヒ・メッセ)開催がなされた都市である。ドイツ有数のスポーツの街としての一面も持つ。
音楽
合唱団トーマス教会


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