ライブボール時代(ライブボールじだい、Live-ball era)とは、1920年から太平洋戦争開戦の1941年までのメジャーリーグベースボールを指す野球用語である。「ライブボール」とは「よく飛ぶボール」のことを指す。
ライブボール時代の到来 ベーブ・ルースはデッドボールの時代を終わらせた
デッドボール時代は突然終わった。1918年と1921年を比較すると、得点は40%上昇し、本塁打は4倍になった。この劇的な変化が突然起こった原因については野球の歴史を研究する人間の間でも議論があり今も一致した見解がない[1][2] が、一般的な説明としては以下のものがある。
ボールの変更
おそらく攻撃力を高め、その延長としてチケットの売り上げも高めようという意図のもとで、オーナーたちがより新しい(ときに「ジャックラビット」ボールと呼ばれた)ライブボールが採用されたためだという説。しかしこれはメジャーリーグベースボール機構によって否定されている。ボールの芯を包むための紡ぎ糸(yarn)が変わるのは1920年以前であり、連邦標準局によるテストでも両者の間に物理的な違いはみられない。
スピットボールの禁止
この説はスピットボールが投手の武器でなければ打者が優位に立っていたというものだが、飛ばないボールの時代に猛威を振るったスピットボールは当時も禁止ではあった。
試合球の増加
1920年のシーズン中に起こったレイ・チャップマンへの悲劇的なビーンボールをうけて、ボールは汚れるたびに取り替えるというルールが生まれた。試合中いつでもボールが綺麗なままであり、「空中を不規則に動く、後のイニングになると軟らかくなる傾向がある、プレートを通ると見えづらくなる」といったボールに関する不満が選手から聞かれなくなった[3]。
サヨナラ本塁打
1920年、メジャーリーグ機構はフレッド・リーブ
ベーブ・ルースの出現に影響され、多くの40本塁打以上を打てる若い強打者が出現した。ヤンキースのルー・ゲーリッグ、フィルデラフィア・アスレチックスのジミー・フォックス、シカゴ・カブスのハック・ウィルソン、デトロイト・タイガースのハンク・グリーンバーグなどである。
しかし、誰もが本塁打狙いの打撃に変えたわけでは無かった。ジョージ・シスラーは1920年にシーズン最多安打記録257を樹立した。これは2004年にイチローによって262本に更新されるまで80年以上も破られなかった。トリス・スピーカーも成功したデッドボール時代以前の打撃スタイルを維持し続けた。
1910年から1920年までの10年で30勝投手は10人。しかし、ライブボール時代に入ってからはわずか3人だけしか出ていない。1931年のレフティ・グローブ、1934年のディジー・ディーン、1968年のデニー・マクレインのみである。
脚注^ Baseball: A Hisory of America's Game. Benjamin Rader, 2002.
^ Koppett's Concise History of Major League Baseball. Leonard Koppett, 1998.
^ Baseball: An Illustrated History. Geoffrey C. Ward and Ken Burns, 1994.
^ ボールがどこに着地したかではなく、どこのフェンスを越えたかでファウルかフェアかが決まった。ただし当時はポールがなかったため審判にとっては不合理ですらあった David Vincent 2008, p. 35
関連項目
ビッグボール
デッドボール時代