この項目では、1936年に創刊されたグラフ誌について説明しています。その前身の1883年に創刊された総合雑誌については「ライフ (1883年創刊の雑誌)」をご覧ください。
ライフ
LIFE1944年6月19日号の表紙。写っているのはドワイト・D・アイゼンハワー将軍。この号には、ロバート・キャパによるノルマンディー上陸作戦の写真10枚が収録されていた。
編集主幹エドワード・クレイマー・トンプソン
『ライフ』(Life)は、1936年から2007年までアメリカ合衆国で発行されていた雑誌である。写真を中心とした誌面で「グラフ雑誌」と言われる。
フォトジャーナリズムという文章記事よりも写真を中心に報道・言論を構成しようという考え方はすでにヨーロッパ(特にドイツ)で試みられていた。ライフ誌はカメラマンをスタッフという専属的な所属とし、撮影から記事・レイアウト等の編集のスタイルを一貫させ、「フォト・エッセイ」と称した。第二次世界大戦前から戦後復興期、テレビの本格普及前までが黄金期で、アメリカの思想・政治・外交を世界に魅力的に伝える媒体であった。
1936年から1972年まで週刊誌として、1978年から2000年までは月刊誌として発行され、2004年から2007年まで新聞折り込み版の週刊誌として発行された。 1883年に創刊された同名の大衆向け総合雑誌のブランドを、1936年に『タイム』誌の発行者のヘンリー・ルースが買収した。『ライフ』はアメリカ初の全ページ写真入りのニュース雑誌としてリニューアルされ、その後数十年にわたって市場を席巻した。最盛期には週に1350万部以上売れていた。この雑誌に掲載された、1945年8月14日にニューヨークで日本の降伏が米国民に伝えられ、ニューヨーク・タイムズスクエアで市民が歓喜に湧く中でアルフレッド・アイゼンスタットが撮影した写真『勝利のキス』が有名である。この雑誌は、フォトジャーナリズムの歴史の中で、重要な役割を果たしたと考えられている。2000年に休刊し、『ライフ』の名称で特別号や記念号が年に数回出る状態となった。2004年に週刊紙の付録として復刊したが、2007年に再び休刊となった[1]。 1936年、出版者のヘンリー・ルースが総合雑誌『ライフ』のブランドを9万2千ドルで買収した。それは、「人生」を意味する「ライフ」という名前が、彼の出版社・タイム社にふさわしいと考えたからである。ルースは、写真が、説明する文章と同じくらいに物語を伝えることができると確信しており、写真を中心としたニュース雑誌として、『ライフ』を1936年11月23日に新創刊した。1923年の『タイム』、1930年の『フォーチュン』に続いてルースが発行した3冊目の雑誌である『ライフ』は、アメリカにおける画期的なグラフ雑誌として発展した。創刊号は10セント(2019年の物価換算で1.84ドル)で9000部が販売され、32ページ中アルフレッド・アイゼンスタットによる写真が5ページにわたって掲載されていた。初代の編集長はクルト・コルフ ニュース週刊誌を企画するにあたり、ルースは1936年にタイム社内で機密の目論見書を発行したが、それには新しい『ライフ』誌のビジョンと、彼が目的としていたものが記されていた[2]。ルースは『ライフ』誌を、写真を中心とする、アメリカの一般の人々の目に触れることが可能な最初の出版物とするつもりだった。 To see life; to see the world; to eyewitness great events; to watch the faces of the poor and the gestures of the proud; to see strange things ? machines, armies, multitudes, shadows in the jungle and on the moon; to see man’s work ? his paintings, towers and discoveries; to see things thousands of miles away, things hidden behind walls and within rooms, things dangerous to come to; the women that men love and many children; to see and take pleasure in seeing; to see and be amazed; to see and be instructed...[3] 人生を見よう。世界を見よう。大きな出来事を目撃しよう。かわいそうな人々の顔や偉ぶった人々の仕草を見よう。奇妙なもの(機械、軍隊、民衆、ジャングルや月の影)を見よう。人間の仕事(絵画、塔、発見)を見よう。何千マイルも離れたところにあるもの、壁の向こうや部屋の中に隠されたもの、近寄ると危険なもの、男たちが愛する女性や多くの子供たちを見よう。見て喜びを感じよう。見て驚きを覚えよう。見て教えられよう... この最初の2つのフレーズTo see Life; to see the world(人生を見よう。世界を見よう。)は、『ライフ』のモットーとなった[3]。 創刊号の表紙は、マーガレット・バーク=ホワイトが撮影した、公共事業促進局の事業により作られたフォートペックダム
概要
歴史
ニュース週刊誌としての創刊
1936年の『ライフ』のフォーマットは、瞬く間に古典的なものとなった。テキストは50ページの写真のキャプションに凝縮されていた。この雑誌は、厚いコート紙に印刷されているにもかかわらず、値段はわずか10セントだった。発行部数は会社の予想を超えて急上昇し、創刊号の38万部から4カ月後には週に100万部を超えるまでになった[5]。この雑誌の成功は、その1年後の1937年に創刊され、1971年まで続いた『ルック』など、多くの模倣雑誌を生んだ。
ルースは1937年に、『タイム』誌の非常勤記者だったエドワード・クレイマー・トンプソン(英語版)を写真担当副編集長に抜擢した。彼は1949年から1961年まで編集長を務め、1970年に引退するまでの約10年間編集主幹を務めた。彼は、1936年から1960年代半ばまでの『ライフ』の全盛期に大きな影響を与えた。トンプソンは、編集者に自由に行動することを許していたことで知られていた。特に、ファッション担当のサリー・カークランド(英語版)、映画担当のメアリー・リザビー(英語版)、現代生活担当のメアリー・ハムマン(英語版)の3人の女性編集者が、trio of formidable and colorful women(手強く派手な三人娘)として知られていた[6]。
1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、『ライフ』もそれを取り上げた。1944年には、タイム誌とライフ誌の40人の戦争特派員のうち、7人が女性だった。アメリカ人のメアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイ、マーガレット・バーク=ホワイト、ラエル・タッカー、ペギー・ダーディン、シェリー・スミス・マイダンズ(英語版)、アナリー・ジャコビー、そしてイギリス人のジャクリーン・サイクスである[7]。
『ライフ』は、毎週発行される雑誌で、戦争の遂行を支援していた。1942年7月、『ライフ』は兵士を対象とした初のアートコンテストを開始し、全階級から1,500点以上の応募があった。最優秀作品には1千ドルの賞金が授与され、16点を選んで雑誌に掲載した。ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーは、その年の夏に117点の応募作品を展示することに同意した。『ライフ』は、戦争を記録するために芸術家を利用しようとする軍の取り組みも支援した。軍隊が政府の資金を芸術家に提供することが議会により禁じられたため、『ライフ』はその取組みを引き継ぎ、国防総省が雇っていた多くの芸術家の雇用を継続した。『ライフ』が継続していたこの取組みは、1960年12月7日にアメリカ陸軍アートプログラム(英語版)などに引き継がれた[8]。
第二次世界大戦中、『ライフ』は太平洋からヨーロッパまで全てのアメリカの戦場に写真家を送り、毎週アメリカ人に戦争を伝えた。また、敵側のプロパガンダで、Life(生)をDeath(死)に入れ替えて使用された[9]。
1942年8月、デトロイトでの労働と人種をめぐる不安について、『ライフ』は次のように書いて警告した。「士気の状況は、おそらくアメリカで最悪のものである....この国の他の人達は、立ち上がって、注意を持って監視するべきである。デトロイトは、ヒトラーを吹っ飛ばすか、アメリカを吹っ飛ばすかのどちらかだ[10]。」エドワード・ジェフリーズ(英語版)市長はこれを読んで激怒した。「デトロイトの愛国心はアメリカのどの都市にも負けない。『ライフ』の記事は全くのデマだ... 私ならイエロー雑誌と呼んで放っておくよ」と語った[11]。この記事は戦争の遂行にとっては非常に危険と考えられ、北米以外で販売された『ライフ』誌からは検閲(英語版)により除去された[12]。
『ライフ』は、著名な戦争写真家ロバート・キャパと契約した。『コリアーズ(英語版)』誌のベテランであるキャパは、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の第一波(D-デイ)に同行したが、撮ってきたのはほんの僅かな写真だけで、その多くはピントが合っていなかった。『ライフ』誌に掲載された写真のキャプションには、キャパの手が震えていたために写真がぼやけていたと書かれていた。キャパはそれを否定し、暗室のせいでネガが台無しになったと主張した。後にキャパは『ライフ』誌のキャプションをからかって、1947年に刊行した戦争写真集のタイトルをSlightly Outly Out of Focus(『ちょっとピンぼけ』)とした。1954年、キャパは第一次インドシナ戦争の取材中に地雷を踏んで死亡した。『ライフ』の写真家ボブ・ランドリーもD-デイに同行したが、「ランドリーのフィルムはすべて失われ、靴も失われた」という[13]。
特筆すべき誤報として、1948年の大統領選挙の直前の号で、大統領候補のトーマス・E・デューイらがサンフランシスコ湾をフェリーで渡っている様子の大きな写真に"Our Next President Rides by Ferryboat over San Francisco Bay"(次期大統領がサンフランシスコ湾をフェリーで渡る)という見出しをつけたことがある。この選挙では、現職のハリー・S・トルーマンが地滑り的当選を果たした[14]。なお、この選挙では他の新聞等でも同様の誤報(『シカゴ・デイリー・トリビューン』のデューイ、トルーマンを破るなど)があった。
1950年5月10日、エジプトの閣僚会議は『ライフ』誌を国内から永久に追放した。販売中の全ての雑誌は回収された。理由は発表されていないが、1950年4月10日に「エジプトの問題王」と題して、ファールーク1世国王に関する記事を掲載したことに対し、政府はそれを国を侮辱していると考えたためと見られている[15]。
1950年代の『ライフ』は、一流の作家に仕事を依頼することで、一定の評価を得ていた。1951年にはアーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』が『ライフ』誌に掲載され、翌1952年に出版された。その後、ヘミングウェイは『ライフ』誌から闘牛に関する4,000語の記事の執筆を請け負った。彼は1959年にスペインを訪問し、2人のトップマタドールの間で行われた一連の闘牛大会を取材した後、10,000語の記事を送った。この記事は、1985年に中編小説『危険な夏(英語版)』として出版された[16]。
全世界で900万人が鑑賞した1955年のニューヨーク近代美術館の巡回展「ファミリー・オブ・マン(英語版)」では、キュレイターのエドワード・スタイケンは『ライフ』の写真を多用した。アビゲール・ソロモン=ゴドー(英語版)によれば20%以上が『ライフ』の写真でだった[17]。スタケインの助手であるウェイン・F・ミラー(英語版)は、1953年後半から『ライフ』誌のアーカイブに入り、推定9ヶ月間を費やして写真を選んだ。彼は350万枚の画像を探し回り、そのほとんどがオリジナルのネガの形であり、雑誌に掲載されていない画像を選定してスタイケンに提出した(写真部門が渡された全てのフィルムをコンタクトプリントにするようになったのは戦争末期に入ってからである)[18]。
1954年11月、女優のドロシー・ダンドリッジが、アフリカ系アメリカ人女性として初めて『ライフ』の表紙を飾った。
1950年代が終わりを迎え、テレビの人気が高まるにつれ、同誌は読者を失うようになった。1959年5月には、店売りでの定価を1部25セントから20セントに値下げすることを発表した。テレビの売り上げと視聴者数の増加に伴い、ニュース雑誌への関心は薄れていった。『ライフ』は新しい形へ変化する必要に迫られていた。 1960年代の同誌は、映画スター、ジョン・F・ケネディ大統領一家、ベトナム戦争、アポロ計画などのカラー写真で埋め尽くされていた。典型的なのは、女優エリザベス・テイラーと俳優リチャード・バートンとの関係についての1964年の長編特集である。ジャーナリストのリチャード・メリマン
1960年代と時代の終焉
1960年代には、ゴードン・パークスの写真が掲載されていた。2000年にパークスは当時のことを振り返ってこう述べた。「カメラは、世界について私が嫌いなものや、世界の美しいものをどうやって見せるかということに対する私の武器です。私は『ライフ』誌のことは気にしていませんでした。私は人々のことを気にしていました[20]。」
1964年6月のポール・ウェルチによる『ライフ』の記事「アメリカにおける同性愛」は、全国的な出版物でゲイの問題を取り上げた最初の記事だった。ライフの写真家はハル・コール(英語版)から、この記事のために「ツールボックス」という名前のサンフランシスコのゲイ・レザー・バーを紹介された。コールは初期のゲイ活動家の1人で、男性同性愛者は女々しいという神話を払拭するために長い間活動していた。この記事は、1962年にチャック・アーネット(英語版)が描いたバーの等身大のレザーマンの壁画の見開き2ページの写真で始まった[21][22]。この記事では、サンフランシスコを「アメリカのゲイの首都」と表現し、多くのゲイがそこに移住するきっかけとなった[23]。