ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
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ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
Rainer Werner Fassbinder

別名義フランツ・ヴァルシュ[注 1]
生年月日 (1945-05-31) 1945年5月31日
没年月日 (1982-06-10) 1982年6月10日(37歳没)
出生地 連合国軍占領下のドイツ
バイエルン自由州
バート・ヴェリスホーフェン
死没地 ドイツ連邦共和国
バイエルン自由州
ミュンヘン
職業映画監督脚本家舞台演出家俳優作家
ジャンル映画テレビ演劇
活動期間1966年 - 1982年
配偶者イングリット・カーフェン1970年 - 1972年
ユリアーネ・ローレンツ (1978年 - 1982年
公式サイトRWFF
主な作品
マリア・ブラウンの結婚
不安は魂を食いつくす
ペトラ・フォン・カントの苦い涙
『四季を売る男』

 受賞
カンヌ国際映画祭
国際映画批評家連盟賞
1974年不安は魂を食いつくす
エキュメニカル審査員賞
1974年『不安は魂を食いつくす』
ベルリン国際映画祭
金熊賞
1982年ベロニカ・フォスのあこがれ
その他の賞
英国映画協会
サザーランド杯
1974年『マルタ』

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ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー (Rainer Werner Fassbinder, 1945年5月31日 - 1982年6月10日) は、ドイツ映画監督脚本家舞台演出家俳優ニュー・ジャーマン・シネマの担い手の一人として知られる。16年間で44本の映画、14本の戯曲、6本の脚色戯曲、4本のラジオドラマを発表した[2]

ファスビンダーは1969年から長編映画の製作を開始した(それ以前に短編映画が3本ある)。フランスジャン=リュック・ゴダールなどヌーヴェルヴァーグの諸作品、またジョン・ヒューストンラオール・ウォルシュハワード・ホークスといったアメリカクライムフィルムの影響下に出発し、1971年以降はダグラス・サークメロドラマに強い影響を受けた[3]
生涯生地 Bad Worishofen の映画館 "Filmhaus" に飾られた記念銘板
「映画を作り続けることで、人生は映画そのものと化す。」
生い立ち

1945年5月31日[注 2]バイエルン自由州のバート・ヴェリスホーフェンで医者の父ヘルムート・ファスビンダー[注 3]翻訳家の母リーゼロッテ[注 4]の家庭に生まれた。1951年、両親が離婚すると母親の手で一人息子として育てられた。ルドルフ・シュタイナー学校を卒業後[4] [注 5]、16歳で高校を中退した後はケルンの父親の元に身を寄せた[4]

早くから映画への関心を募らせていたが、映画学校で製作を学ぶという志望は叶わず、南ドイツ新聞の資料室の事務助手[8]バイエルン国立歌劇場でのエキストラなどのアルバイトなどをしながら、1964年から二年間ミュンヘンの私立の俳優養成学校に通った[5][4]。1996年9月に新設された映画大学「ドイツ映画・テレビ大学ベルリン(DFFB)」に入学願書を提出したが、不合格となっている[4][9]1966年に初めて2本の短編映画を製作し、翌年には初めての35ミリ短編映画『小カオス』を製作した[5][注 6]。また、1967年から俳優として他の監督の作品への出演も始めている[5][11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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