ライトパターソン空軍基地
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ライト・パターソン空軍基地
Wright-Patterson Air Force Base

2000年10月10日、上空からの撮影
IATA: FFO - ICAO: KFFO
概要
国・地域 アメリカ合衆国
所在地オハイオ州デイトン
種類軍用
運営者 アメリカ空軍
標高250.8 m (823 ft)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度47分55秒 西経84度5分2秒 / 北緯39.79861度 西経84.08389度 / 39.79861; -84.08389
公式サイト ⇒www.wpafb.af.mil
地図
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滑走路

方向 ILS 長さ×幅 (m) 表面
05L/23R 有 3,841×91 アスファルト
05R/23L 無 2,134×46 アスファルト

出典: FAA資料[1] 及び公式サイト[2]
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国立アメリカ空軍博物館

ライト・パターソン空軍基地(ライト・パターソンくうぐんきち、: Wright-Patterson Air Force Base)は、アメリカ合衆国オハイオ州デイトンに位置するアメリカ空軍の基地である。基地の名はライト兄弟(現在は基地の敷地であるハフマンプレーリー内で飛行活動を行った)とフランク・ステュアート・パターソン(NCRの共同創設者の親族であり、1918年に航空機事故で死亡した)にちなんで名付けられた。

通称「Wright-Patt」と呼ばれるこの基地には、アメリカ空軍の兵站支援、航空関連装備の開発・改造等業務を統轄する資材軍団司令部が所在し、予備役軍団隷下の第445空輸航空団(英語版)も所在しているほか、航空システムセンター及び空軍研究所の本部も所在する。また、米空軍医療センター(病院)や空軍工科大学国立アメリカ空軍博物館などの施設も基地内にある。

2000年国勢調査において、基地全体が一つの国勢調査指定地域であった。これにはモンゴメリー郡リバーサイドの一部も含まれる[3]。その調査では6,656人の居住者を数えた。2005年9月30日現在の基地内の恒久的な就労者人口は5,517人の軍人と8,102人の民間人を数えた[4]

ライト・パターソン空軍基地では年に一度、空軍記念日(9月18日)に最も近い土曜日にアメリカ空軍マラソン(英語版)が催される。
歴史

ライト兄弟ノースカロライナ州キティホーク1903年に世界最初の有人動力飛行を行った後、地元デイトンで飛行場に適した場所を探していたところ、銀行家トレンス・ハフマンが彼の所有する草原を無償で貸与することを許可した。それはデイトンの中心地より北東に13km(8マイル)の場所に位置していた。1904年兄弟はここで105回のフライトを行った。この場所をハフマンプレーリーという[5]

1917年第一次世界大戦のさなか、パイロット射撃手を養成するために今日オハイオ州フェアボーンであるところ、ハフマンプレーリーの隣接地に、ライト兄弟の兄の名に由来するウィルバー・ライト・フィールドが開かれた。そして間もなく隣接地にフェア・フィールド航空機整備施設の建設が続いた。同年デイトン中心部より北に1.6km(1マイル)のところにアメリカ軍通信部隊の離着陸施設マクック・フィールドも開かれた。

1924年マクック・フィールド軍用機試験場の閉鎖により、地元有志からなるデイトン・コミュニティは1,821ヘクタール(4,500エーカー)の土地を購入した。そこにはウィルバー・ライト・フィールドも含まれる。そしてそこはライト兄弟によるいくつかの複合施設が位置していた。

1918年6月19日に、フランク・スチュアート・パターソン中尉はAIRCO DH.4航空機で機関銃プロペラを同期させるための新しい仕組みの飛行試験のさなか、4,600m(15,000フィート)からのダイビング中、航空機から翼が分離する事故で死亡した。そしてパターソン中尉を記念して、またNCRのオーナーであるパターソン家への敬意を表して、ハフマンダムの東側(ウィルバー・ライト・フィールド、フェアフィールド航空機整備施設及びハフマンプレーリーを含む)は1931年7月6日に名称をパターソンフィールドへと変更した。三角形の離着陸場と呼ばれた場所は、現在では国立アメリカ空軍博物館が位置している。

隣接した軍事施設はライト・フィールドとして知られたまま残り、陸軍航空隊の研究開発と飛行テストのセンターとなった。1941年、陸軍航空隊は陸軍航空軍に改変された。1947年9月18日にアメリカ空軍が正式に発足。1948年に2つのフィールドはライト・パターソン空軍基地という名称で併合された。元ライトフィールドは合同軍事施設のエリアBに、元パターソンフィールドはエリアCとなった。

1963年2月1日から1975年9月30日までの間、戦略航空軍団の第17爆撃航空団 (重)(英語版)は基地のエリアAに配属された。第34爆撃飛行隊(英語版)のB-52と第922空中給油飛行隊(英語版)のKC-135からなる飛行隊には、核抑止的な任務があり、さらにはベトナム戦争において航空機と航空機搭乗員を供給した。

1994年に、空軍研究所マーフィーの法則の名前の由来となったエドワード・マーフィー少佐が勤務していた)は通称「ゲイ爆弾」と呼ばれる奇妙な兵器の開発のため、ペンタゴンに750万ドルの予算を要求した。これは、ホルモン爆弾によって敵兵が戦闘不能に陥るよう同性同士が互いに「性的に抑えがたい欲求」を与えることを企図したものであった[6]

今日、1900年代初頭のようにライト・パターソンでは兵器体系がテストされ、見直されているところである。基地の任務はロジスティックス管理、研究開発、教育、航空業務、その他多くの防衛関連活動に及ぶ。ライト・パターソン空軍基地は空軍と国防総省を支える教育機関である空軍工科大学の本拠地である。またそれは米空軍の高度なセキュリティで守られた国家航空宇宙情報センターも含む。そこで冷戦時代、鹵獲されたソビエト連邦MiGが分解・テストのために海外技術部という部署に運ばれた。
ハンガー18

ライト・パターソン空軍基地は1947年7月ロズウェル事件とのつながりのためUFO陰謀論と関係があることで知られる。ある者はライト・パターソンのハンガー18(18番格納庫)がネバダ州エリア51とともに、粉砕されたUFOの残骸がかつてあったか、あるいは今もあると信じている[7]


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