ライデン
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この項目では、オランダの都市について説明しています。その他のライデンについては「ライデン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ライデン
Gemeente Leiden

アウデ・ライン川沿いの風景


基礎自治体旗基礎自治体章

位置

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度09分30秒 東経4度29分28秒 / 北緯52.158292度 東経4.49101度 / 52.158292; 4.49101
行政
オランダ
 州(Provincie) 南ホラント州
 基礎自治体ライデン
地理
面積 
  基礎自治体域23.16 km2
    陸上  21.95 km2
    水面  1.21 km2
人口
人口(2008年12月31日現在)
  基礎自治体域116,936人
    人口密度  5327人/km2
その他
等時帯CET (UTC+1)
夏時間CEST (UTC+2)
公式ウェブサイト : ⇒http://www.leiden.nl/

ライデン(オランダ語: Leiden [?l?i?d?(n)] ( 音声ファイル)、レイデンとも表記する)は、オランダ南ホラント州基礎自治体ヘメーンテ)。アムステルダムの南西36kmに位置する。オランダ最古の大学都市であり、画家レンブラントの生地である。日本ではシーボルトコレクションを所蔵する日本博物館シーボルトハウス国立民族学博物館があることでも有名である。
歴史

現在のライデン近郊にある、ローマ時代の定住地の名はマティロ (Matilo) といった。しかし、ライデンにあるローマ時代の要塞は4世紀からのものである。

新旧のライン川の合流地点にあたる地に人工的な丘がつくられ、そこにライデンができた。この場所についての記載は860年頃からで、定住地の名はレイトン (Leithon) といった。丘の上を本拠地にするライデンの領主は、最初はユトレヒト司教に従属したが、1100年頃に世襲城主がホラント伯領へ従属するようになった。この伯領は近くの要塞ホルトラント (Holtland) またはホラント (Holland) 領から1101年に名付けられたものである。

ライデンは、1047年神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世によって略奪にあった。13世紀初頭、ホラント女伯アダが叔父ウィレム1世との内戦を戦い、ライデンへ逃げ込んできた。ウィレムは要塞を包囲し、アダを捕らえた。

ライデンは、1266年に市の特権を授けられた。1389年の人口は4000人程度に増えていた。
1420年の包囲戦

釣り針とタラの戦争 (Hoekse en Kabeljauwse twisten) の最中の1420年、バイエルン=シュトラウビンク公ヨーハン3世は、ライデンを征服するために自身の軍とともにゴーダからライデン方面へ進軍した。ライデンは新しいホラント女伯でかつエノー女伯・ゼーラント女伯であるヤコバ・ファン・ベイエレン(ヨーハン3世の姪で、ホラント伯ウィレム4世の一人娘)に、彼女が伯位を相続して以来、税を払わなかった。ヨーハンの軍は万全の装備をし、数丁の銃を持っていた。ライデン城主フィリップス・ファン・ヴァッセナールとその他の地元貴族は、ヨーハン3世は最初にライデンを包囲し、市を囲む砦を制圧するため小さな部隊を送り込んでくるだろうと推測した。ヨーハン3世は大砲を自軍で運搬したが、一つは重すぎて船で運んだ。城壁で大砲が炸裂し、鉄の玉で城門が壊され、砦が一つずつ敵の手に落ちていった。1週間のうちにヨーハン3世はポールヘースト、テル・ドース、ホイクマデ、デ・ジール、テル・ワールト、ヴァルモント、デ・パッデンポールの各城を征服した。

6月24日、ライデンの城壁前にヨーハン3世軍が姿を現した。2ヶ月間の包囲戦後、1420年8月17日、市はヨーハン3世軍に降伏した。フィリップス・ファン・ヴァッセナールは伯位と財産を剥奪・没収され、晩年を囚われの身となって過ごすことになった。
16世紀と17世紀オットー・ファン・フェーン: ライデンの救援 (1574年)、水浸しになった草原のおかげで、オランダ艦隊がスペイン軍歩兵隊の場所へ接近できたへーレン運河沿いの17世紀の町並み

ライデンは、16世紀から17世紀にかけて繁栄を極めた。15世紀終わりにライデンの繊維業(主に服地)確立が非常に重要だった。スペイン軍の追放後、ライデンの織物、ライデンの毛氈、ライデンのらくだ織りはよく知られた言葉だった。同じ時代、ライデンは重要な印刷・出版業の地として発展した。影響力のある画家クリストフ・プランタンは一時期ライデンに住んだ。彼の弟子の一人ローデウェイク・エルゼフィル(1547年 - 1617年)は、ライデンで最大の書店を開店し印刷業を営んだ。現在も彼の子孫が経営を続けている。

1572年、ライデンはスペイン支配に対する反乱でオランダ人反乱派につき、八十年戦争で重要な役割を担った。スペイン軍に1574年5月から10月まで包囲され、ライデンは堤防を人為的に決壊させた結果解放された。水浸しになったライデンの住民へ物資を船で運搬するのを容易にしたのである。前の年に示した英雄的な防衛行動を讃え、オラニエ公ウィレム1世は1575年にライデン大学設立を許可した。ライデン包囲戦最後の日であった10月3日は、今日も毎年ライデンで祝われている。言い伝えでは、ライデン市民が大学か、支払いを避けられない税を免除してもらうかの選択を提案したという。

ライデンはピルグリム・ファーザーズの地としても知られる(北米のニューアムステルダムへ最初に移住した人々と同様である) ⇒[3] [4]。彼らは新世界のマサチューセッツとニューアムステルダムへ出発する前、17世紀初頭の一時期この地で暮らした ⇒[5]

17世紀、フランドルからの難民によってある程度織物産業が促進されたことから、ライデンは繁栄した。1574年の包囲戦の間に15,000人の人口の3分の1ほどが失われた。それが1622年には瞬く間に45,000人に回復し、1670年頃には70,000人に迫った。オランダ黄金時代、ライデンはアムステルダムの次にオランダで大きな都市となった。

17世紀後半からライデンは急に衰えだした。主に織物産業衰退が原因であった。19世紀初頭、製造業がライデン経済の中心に残っていても、毛氈産業は完全に途絶えた。この衰退ぶりは、人口減少によって明らかになった。ライデンの人口は1796年から1811年の間に30,000人ほど減少し、1904年には56,044人となっていた。
19世紀と20世紀

1807年1月12日夕方、ライン川に停泊中のボートが横転し、積み荷である70樽合計17,400キロもの火薬が爆発した。一瞬にして吹き飛ばされた区画だけではなく、鯨油の倉庫などもあったことから大火災が発生し、151人の死者、2000人を超す負傷者、220棟の住宅が崩壊する被害が出た。フランスのナポレオン政権下にあった当時のオランダ(ホラント)王国は英国と交戦状態にあったが、英国からも多数の救援物資や義援金が到着した。また、前年に即位したばかりであり、ナポレオン政権下の傀儡オランダ国王であり皇帝ナポレオン一世の実弟にあたるローデウェイク1世(ルイ・ボナパルト)は私的にライデンを訪問し、犠牲者への援助を行った。これにより、同地市民からのルイの支持率が上がった。


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